困っていたら助けてくれた。ラトビアと、ルッチおばあちゃんとの出会い
内堀:運命的な、恋に落ちるような感覚でした。でもそれじゃ抽象的すぎますね(笑)。
もうちょっとかみ砕くと、ラトビアで会った同世代の若者たちは「自分たちがラトビアを作っていくんだ!強くしていくんだ!」と口々に言うんです。旧ソ連から独立してまだ歴史が浅い国だからこそ、若者たちが作り上げる国だという意識がみんな強かった。
それが、私にはとても新鮮に見えました。私も日本のことが大好きでしたが、日本で「日本のことが大好き」と発言すると、愛国心が強すぎて引かれてしまうこともあると思うんです。でも彼らは「ラトビアが好きだ」とこんなにも堂々と言っている。それで、ラトビアのこと、そこに住む人のことをもっと深く知りたいと考えるようになりました。
内堀:そうですよね。だからこそ、そんな日本との違いに惹かれたのだと思います。当時大学4年生で就職活動もしていましたが、方向転換して大学院へ。これまでと少し方向性を変え、文化人類学を専攻し、ラトビアについての研究を始めました。
ふたたびラトビアの地を踏んだのは、大学院で現地調査をしたとき。世界遺産にも登録されている首都のリガへ行ったのですが、求めていた「ラトビア」らしさはありませんでした。歴史的な建物は多くても、観光地として栄えていて近代的で、何だか私が住む愛知県の名古屋市と同じような雰囲気だなと。
現地の日本人の方に相談したところ、おすすめされたのが、リガからバスで約4時間の「スイティ」という民族が暮らすアルスンガ村でした。
内堀:アルスンガ村は人口200人、食べ物はほとんどが自給自足という小さな村。私が訪れた初夏には、夏至祭というラトビアで一番大きなお祭りが開催されていました。太陽が一番の神様で、そこから得られる恵みや人とのつながりに感謝する文化があるんです。自然や文化を大切に守るスイティの姿を目の当たりにして、言い表せないほどの「ラトビアらしさ」を感じました。
特に私が注目したのは「スイティの民謡」で、修士論文のテーマにもしました。旧ソ連からの独立前はラトビア語やラトビアの文化は禁止されており、スイティの人たちは自分たちのアイデンティティを、民謡を通して伝承していたんです。だからこそ、その民謡にはラトビアらしさが詰め込まれていました。
内堀:始めは村の保育園の園長室を借りて住んでいたのですが、もっと密に村の生活を学びたいと村長にお願いしました。
そこで紹介してもらったのが、ルッチさんというおばあちゃん。私がのちに出演することになるドキュメンタリー映画は、このルッチおばあちゃんとの交流を描いたものです。
ルッチおばあちゃんは見ず知らずの日本人である私を家に招き入れ、そこに住まわせてくれたんです。彼女は英語が話せませんから、コミュニケーションもはじめは身振り手振りで。それでも、英語で書かれたラトビア語の辞書を片手に、ルッチおばあちゃんからラトビアの文化や生活を学んだんです。
内堀:ラトビア語がある程度話せるようになってから、ルッチおばあちゃんに「あの時なんで私を家に住まわせてくれたの?言葉もわからないのに」と聞いたことがあります。その返事は「あなたが困ってたから」。ただそれだけだと。
ルッチおばあちゃんとの暮らしはとても質素なものでした。飼っている牛からとれるミルクでチーズを作り、必要最低限の野菜を育て、ゴミはたい肥にする。足りないものがあれば村の人と物々交換をし、お礼に歌をプレゼントする。スイティの人々にとって、歌は何よりものプレゼントなんです。そんな生活が楽しくてしょうがなかった。
内堀:私にとってはとても豊かな生活でした。人を思いやり、「命があることは当たり前ではない」ことを、スイティの人たちはよく知っている。大地と太陽の恵みによって育まれるものへの感謝を忘れない。そんな生活は、お金や、大量消費社会では決して得られない「本当の豊かさ」だと思ったんです。
食事中に会話もなくテレビを見ていた日本での暮らしでは、私はどこかでさみしさを感じていました。けれどルッチおばあちゃんは、目の前にある食事に感謝し、私と食事を共にすることに感謝し、その一日を大切に生きていた。日本人である私を「日本人」というカテゴリでは見ず、ひとりの人間として接してくれました。この温かさは、スイティの人たちと触れ合ったからこそ感じられたものだと思います。
次第に私はこんなに素敵な考えを持っているラトビアのことを、もっと日本の人に知ってほしい、と思うようになったんです。それが本当の豊かさを広めることにもつながるはずだと。学生時代に「日本の文化を海外に広めたい」と考えていた私とは、まったく反対でした。