苦手だった英語が希望の道に。でも道は突然失われた
岩崎:いえ、私は一般的な日本の義務教育を受けました。英語に触れるのは英語の授業の時だけで、実は一番苦手な科目でした。
英語への向き合い方が変わったのは、大学のゼミで短期海外留学に行ってからですね。自分があまりにも話せないことに愕然としたんです。授業はほとんど理解できないし、日常的なコミュニケーションすらとれない。「英語が話せれば世界中の多くの人と会話ができるのに」「なんだか人生損してるな」と思ったのがきっかけで真剣に学び始めました。
大学卒業後の進路は、留学か就職かで悩んだのですが……教授に「自分でお金を貯めれば、留学はいつでもできる。せっかくご縁をいただいたなら就職してみては」と背中を押されて。内定をいただいた金融機関に就職して、3年間働いた後、満を持してアメリカに留学しました。でも1年間で帰国せざるを得なくなって、留学の継続を断念することになったんです。
岩崎:いろいろな不幸が重なって……まずは自分の事故です。車通学中に追突事故に遭い、私は大きなけがはなかったものの、とにかくショックが大きくて一度帰国することにしたんです。その帰国中に、母がくも膜下出血で倒れました。いつどうなるかもわからない状態だったんですが、そんな時に、我が家の男性陣は本当に役に立たなくて!父は自分が倒れたのかというくらい憔悴して手術の同意書にサインもできないし、きょうだいは東京にいるし。自分がなんとかするしかないと走り回りました。
幸い、母は後遺症もなく元気になりましたが、今後どうなるかわからないからと、海外に戻らずに地元の新潟で暮らすことにしました。前職が金融系だったこともあって、プルデンシャルの新潟にある支社で事務職として働き始めたんです。
岩崎:地元は好きだけど、楽しみにしていたアメリカ生活がなくなって……この後の人生が全部なくなったように思っていました。
正直、プルデンシャルで働き始めたのは生きるためのお金を稼ぐことが目的でした。でも、自分の人生において、たぶんこの選択がよかった。ここで働く皆さんって、本当に前向きなんですよ。それぞれに想いを持って、何かを目指して仕事をする様子に「この新潟にも夢を持って前向きに働いている方がこんなにたくさんいるんだ!」と刺激を受けました。
そんな環境にいる中で、「私、もしかして地方にいることを言い訳にしていたのかも」と思うようになりました。都会より機会に恵まれていない、頑張ってもどうにもならないと勝手に思って、自分の人生を探すことを諦めて。それに気づいてから、自分のこれからの人生に関心を持てるようになってきて、今の夢を見つけることができました。
岩崎:母が心配なこともあって、私は生涯新潟で暮らすだろうと思っていました。今後自分が新潟で結婚・出産をするという将来を考えたとき、自分が苦労したぶん子どもにはもっと楽しく英語を話せるようになってほしいなと思って。それで「新潟の英語教育ってどうなっているのか」に興味が湧いて、調べてみました。
そしてわかったことは、当時の新潟には「自分の子どもを通わせたい」と思えるような理想的なスクールが全然なかったということ。東京にはインターナショナルスクールもたくさんあるし、優秀な講師をそろえた英会話スクールもある。でも新潟にはない。だからこそ、私のように「ここに入れば英語が話せるようになる」というスクールを探している人は他にもいるんじゃないかと思ったし、ないなら自分で創ってみようと。そうやって理想の学校を創るという夢が生まれたんです。
柴:人から応援される人だなというのはずっと感じていました。別の世界でも花開く人だと予感していたので、「私、実はやりたいことがあって……」と打ち明けてくれた時は、嬉しかったですし、応援したいと思いましたね。あの時の「本気だ」とわかる眼差しは今でも覚えていますよ。やりたいことを徹底的にやりぬくほどエネルギーを持っている人はなかなかいないと思うので尊敬しています。
岩崎:嬉しいです。柴さんは明るくて元気で、会社の中でも特に優しい人でした。いつも気にかけてくれる柴さんには信頼を寄せています。プルデンシャル在職中、理想の学校を作りたいという夢についてハッキリと打ち明けたのは柴さんだけですから。