オリエンタルラジオの中田敦彦さんが絶賛し話題となった本、『転職2.0 日本人のキャリアの新・ルール』(SBクリエイティブ)の著者、村上臣さん。学生時代に「電脳隊」を共同起業した後、90年代の就職氷河期に大手コンサル企業に新卒入社した。

そこから軽やかに転職を重ね、2012年からヤフー株式会社の執行役員兼CMOを務めたのち、2017年にLinkedin(リンクトイン)の日本代表に就任。40代で新境地である外資系企業への転職を果たし、今もなお複数のスタートアップの戦略・技術顧問も務めるなど流動的にキャリアを築き上げている。

そんな村上さんは、子育てやメンタルヘルスにおける自身の“当事者意識”によって、多様な働き方や働きやすい制度づくりを人一倍推進している経営者でもある。

幼少期の経験から今までのキャリア、ダイバーシティを尊重する環境整備の経緯、さらには転職アドバイスまで、村上さんの幅広いお話から、選択肢の多い現代社会を生き抜くヒントを得たい。



幼少期のものづくり精神が、いつしか社会で価値を発揮していた

画像1: 幼少期のものづくり精神が、いつしか社会で価値を発揮していた
ーー大学生からエンジニアとしてのキャリアを歩み始めた村上さんですが、幼少期からITやものづくりに興味があったのでしょうか?

村上:工作などのものづくりが大好きな子どもでした。親に聞いた話だと、幼稚園の頃は常にドライバーを手にしていたそうです。ネジを見かけるとすぐに分解し始めるので、「臣にはネジを見せないように」って気をつけていたみたいで(笑)。当時から、物の構造に興味があったんでしょうね。

その後のキャリアに繋がるプログラミングは、小学5年生頃に始めました。当時ゲームが大好きだったんですが、新しいソフトを買うお金が無く……。「自分でゲームを作れば、無料で遊び放題だ!」と思い立って、プログラミングに触れ始めたんです。

ーー小学生で“ゲームが買えないなら自分で作る”という考えに至るなんて、驚きです。当時、ものづくりのどんなところに楽しさを感じていましたか?

村上:何かを作ること自体も好きなんですが、やっぱり作ったもので人が喜んでくれるのが楽しかったんだと思います。

小学3年生で作ったのが、『お風呂が溢れないようにするブザー』。母がお風呂を溢れさせる名人で……(笑)まだ自動の湯はり機能が無い時代なので、夕飯の支度をしているうちに、いつもお湯を止めるのを忘れてしまっていたんです。

簡単な仕組みのブザーでしたが、部品を一生懸命ハンダ付けして作ったら、母が「これでもう、水がもったいなくならないわ〜」とめちゃくちゃ喜んでくれたんですよね。

目の前の人をハッピーにする喜びを知り、ものづくりが楽しくなりました。

ーーそれは素敵な原体験ですね。そこからプログラマーとして本格的に仕事を受けるまでにはどんな道のりがあったのでしょうか?

村上:中学生になってからもずっと機械づくりやプログラミングをしていました。高校生になるとそれが加速し、いわゆる“自作PC”を作るために秋葉原のPCパーツ専門店に毎週通い詰めていました。通いすぎて店長と仲良くなったし、他のお客さんに店員と間違われることもありましたね(笑)

ある時、店長から「もううちで働けば?」と言っていただいて。高価なパーツを買うお金も稼げるし、社割価格で買えるかもしれない……。そう思って、そのお店でアルバイトを始めたんです。

僕は法人のお客さまの接客を担当していました。お店はPCパーツ専門店ですが、お客さまから「ホームページってどうやって作るの?」「こういうシステムがほしいんだけど」とパーツ以外の相談をいただくことも多くあって。プログラミングなら自分ができるなと思い、お店に許可をとって、ホームページ制作やシステム開発をフリーランスのように受けるようになったんです。

当時は一人暮らしを始めたばかりでお金がなく、ショップ店員から肉体労働まで、もうとにかく色々なアルバイトをしていました。その中で、プログラミングの仕事は僕にとって、楽しく効率よく稼げる手段だったんですよね。

画像: ご本人提供(電脳隊の仕事で訪れたシリコンバレーにて)

ご本人提供(電脳隊の仕事で訪れたシリコンバレーにて)

ーーアルバイトから個人の案件受注に繋がっていったんですね!フリーのプログラマーから、学生起業に踏み切ったのはどんな背景があったのでしょうか?

村上:“学生起業”と言うとキラキラしているように思われがちですが、僕の場合は志も何もなかったんです(笑)。いただいた依頼をひたすらこなすうちに、案件の規模が大きくなって、大学のサークルで出会ったプログラマーとも手分けをしていたら、売上もすごく大きくなって……。

ついにお客さまから「学生の個人事業者にこれ以上の額は発注できないから、法人にしてくれないか?」と頼まれて、みんなでお金を出し合って「有限会社 電脳隊」を起こしたんです。
当時はただ必要に駆られて急いで法人化したので、「世界を変えたい」「社会課題を解決したい」といった大きな夢などはありませんでした

「スタートアップ」や「ベンチャー」といった言葉ができるもっと前の時代でしたし、起業当初は本当にもう、泥臭いことの積み重ねでした!

ーー「電脳隊」が大きく成長していたにも関わらず、村上さんは新卒として他の企業に就職することを選んでいますよね。その選択にはどんな背景があったのでしょうか?

村上:就活のタイミングになって、そのまま電脳隊に居続けるか、別の会社に就職するかという選択を迫られました。でも「新卒」という切り札を持っているのは一度だけ。それならば、ひとまず就活してみようと思ったんです。

電脳隊は、少人数で経営している会社だったので、就職するなら「大きな企業の内部を知る」と決めていました。さらに、効率的なことが大好きな僕は、一つの会社にいながら他の大企業も見られる大手コンサルティング会社に入社しました。

ーー電脳隊とは対照的な「大企業」に入社し、どんな印象を受けましたか?

村上:期待していたほどのスピード感はありませんでしたね。それに、どれだけ順調に売上を立てても給料が増えなかったんです。それについて上司に質問すると「新卒採用は3年間、インセンティブも昇給も無し」と言われて。中途採用の社員が同じくらいの売上を立てて昇給する中、僕は新卒というだけで3年間も同じ給料。これでやる気を保つのは難しいことです。

そんなタイミングで、電脳隊メンバーが集まる忘年会があったんです。自分の近況を語ったところ、「もう大企業はいいんじゃない?また一緒に仕事しないか?」と、メンバーが誘ってくれたんですよね。

当時はちょうどITバブルの終わりごろで、いつバブルが弾けてもおかしくない状況でした。「せっかくならITバブルの終焉を、業界の中から見届けたい」と思い、コンサルティング会社を辞め、電脳隊とピー・アイ・エム株式会社が合併したピー・アイ・エムに参画したんです。

画像2: 幼少期のものづくり精神が、いつしか社会で価値を発揮していた
ーー「終焉を中から見届けたい」とは……?

村上:「お祭りは、見るより中に入って神輿をかつぐほうが楽しい」という感覚ですね。日々飛び交う威勢のいいITニュースを眺めながら、僕自身「このバブル、いつ弾けるんだろうな」と気になっていましたし。

そういえば、大学時代はサンバカーニバルの楽器隊もしていたので、みんなで一緒にお祭り騒ぎを作り出すのが好きなのかもしれません(笑)


「大企業病」を打破するためのダイバーシティ

画像: 「大企業病」を打破するためのダイバーシティ
ーー村上さんは、会社全体の働き方や環境整備を積極的に進めていることでも有名ですが、そういったことについて、初めて考えたのはどのタイミングだったのでしょうか?

村上: ピー・アイ・エム株式会社とヤフー株式会社が合併して、ヤフーで働いていた時は、「開発部長」という肩書きで、とにかく事業の成長に集中していました。だから正直なところ、会社全体のことはあまり考えられていませんでした。

その後ヤフーを一度退職しますが、以前一緒に働いていたメンバーが社長や役員層になったタイミングで、「モバイル事業に注力するから、戻ってこない?」と声をかけてもらったんです。そこで執行役員兼CMOに就任して、ひとまわり大きなスコープで会社全体を見た時、会社がいわゆる“大企業病”を患っている状況に気づいたんです。

例えば、IT企業なのに使っているPCが古くて生産性が落ちていたり、承認プロセスが多すぎて進捗が遅かったり。また時短勤務やフレックス勤務、育休などの制度が整っておらず、社員のポテンシャルが引き出せていないのも問題だと感じました。

最先端の業界にいるならば、もっとスピード感を持ってチャレンジし、新しいモバイルサービスをどんどん生み出したい。会社の雰囲気を変えて、イノベーションを起こすためには何が必要か……と考えているうちに、多様性を尊重する「ダイバーシティ」な環境づくりに辿り着いたんです。

ーーダイバーシティを尊重する社内環境を、どのように作っていったのでしょうか?

村上:当時は執行役員のほか情報システム部門の本部長も兼務していたので、社内のさまざまなツールや仕組みを変えることで、働き方も変えていこうと考えました。

例えば、時短勤務や在宅勤務の導入のために、メッセージツールやネットワークの見直しをすること。子育てをしている人や、体調の変化が多い女性でも働きやすいようにしたかったんです。コロナ禍の前から先駆けて取り組んでいました。

また、悩みを持つ当事者と直接話す機会をつくったことで、当事者が抱える悩みは想像よりも深刻なのだと知りました。常に不安やストレスを抱えている状態で業務に100%集中できず生産性が落ちるのは当たり前です。あってはならない大きな損失だと思いました。

そんな悩みを解決するために少しずつ制度を変えていくと、それまで障壁を抱えていた人がみるみるうちに活躍していくんです。「やっぱり、セットアップの問題なんだ」と確信が持てましたね。会社に正しいセットアップがあれば、ハッピーに働ける人が増えるんです。

他にも、LGBTQ+の方を理解・支援するAlly(アライ)を増やすために、社内外での発信もしました。「東京レインボープライド」への協賛もその一つです。社内では、ステッカーを作ってLGBTQ+フレンドリーな空気づくりをしたり、同性カップルでも慶弔祝い金を受給できるように制度改定をしたり。「この会社はインクルーシブだ」と伝わるように取り組みました。

ーー何かを変えようとすると、反対・反発が生じることもあるかと思います。

村上:そうですよね。なので、最初に行ったのは執行役員の意識改革でした。なんせ「女性活躍を推進したい」と議論する執行役員が、全員男性だったんですよ……!どうしても当事者意識が薄く、机上の空論になってしまう環境でした。LGBTQ+の領域でも、みんな平気な顔して「会ったことないし、何を考えてるかわからない」と言えてしまうんですよね。

だから執行役員には、データを基にファクトベースで現状を伝えていきました。

例えば、「人口の10%以上の人がLGBTQ+を自認しているので、佐藤さんと鈴木さんを合わせたよりも多いんです。佐藤さんと話したことはありますよね。では、LGBTQ+の方と話したことは本当にないんですか?」といった感じです。

そのように問いかけると、「身近にいるはずだけど、自分には不安で言えなかったのかもしれない」と自覚してもらえました。

女性活躍の課題も同じで、「今は半分以上の家庭が共働き」というデータを使って説明しました。それらを役員から管理職へ、そして管理職から社員へと降ろしていくんです。そうすることで、だんだん社内の認識も変化していったように思います。



画像: <前編>圧倒的な当事者意識で企業を変える。『転職2.0』著者・村上臣さんが作る多様性のある働き方<前編>

村上臣(むらかみ・しん)

青山学院大学理工学部物理学科卒業。大学在学中に仲間とともに有限会社「電脳隊」を設立。2000年8月、ピー・アイ・エム株式会社とヤフー株式会社の合併に伴いヤフー株式会社入社。2011年に一度退職した後、再び2012年4月からヤフーの執行役員兼CMOとして、モバイル事業の企画戦略を担当。2017年11月に9億人超が利用するビジネス特化型ネットワークのLinkedIn(リンクトイン)日本代表に就任。日本語版のプロダクト改善、利用者の増加や認知度向上に貢献し、2022年4月退任。株式会社ポピンズ及びランサーズ株式会社の社外取締役ほか複数のスタートアップの戦略・技術顧問も務める。主な著書に『転職2.0』『稼ぎ方2.0』(SBクリエイティブ)・『Notionで実現する新クリエイティブ仕事術』(インプレス)がある。

取材・執筆:小泉京花
編集:野風真雪
写真:梶 礼哉

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