指導や評価を受けてみたくて、サラリーマンに憧れた

宮野:最初はホストファミリーの父親に言われるがまま、いろんなビジネス本や教材でビジネスについて学んでいきました。でも、あとはとにかく現場仕事ですね。朝、大きなバンに大量の栗とスタッフを乗せ、地域のさまざまな店に栗と人を降ろしていくんですよ。で、夜になったらまた同じルートを回って、今度は人と売上金を回収する。毎週末は20,000ドルくらいの売上げがありました。現地に住む日本人から「懐かしい!」と喜ばれて、もう飛ぶように売れて。
宮野:そう。でも、僕がやっていたのは栗を売ることとスタッフの採用くらいだったので、実際どれほど利益が出ていたのかはじつは把握していません。つまり「何もしない」と言いながら、“父”は裏側の面倒な仕事や経理作業は引き取って、現場の楽しいことだけを任せてくれていたんですよね。
宮野:近くに大きな日系スーパーが2つあり、その駐車場に出店させてもらっていたんですが、片方の店長に「うちだけ1ドル安くしてくれよ」と頼まれ、ほいほい引き受けちゃったときは大変でしたね。すぐにもうひとつの店からも値引きの要請があり、それを受け入れたら元の店から文句を言われて……あっという間に、2店舗ともすごく安い値段で売ることになってしまいました。
普通に考えたら安易に値引きしちゃいけないのなんて当たり前なんですが、なにも習っていないからわからないんですよ。ホストファミリーの父からは「自分で考えろ」と言われるから、言われるがまま自分で考えてみるんだけど、言われるがまま考えているだけだから何も実にならないし(笑)

宮野:わからないことばかりだったから、当時は現場のことを自分ですべて決めていくのがつらかったですね。「失敗しないように誰かに教えてほしい」とか「僕はすごく頑張っているし優秀だと思うから、この働きをちゃんと評価してくれる人がいたらなぁ」とか、よく考えていました。だから、サラリーマンになりたかったんですよ。思春期にスーパーで甘栗を売るのも気恥ずかしかったし、スーツを着て働くほうがかっこいいとも思っていました。
宮野:18歳かそこらで、社会人になってもすぐにはできないようなビジネスの現場を踏めたのは、いい経験だったなと思います。でも、そう思えたのはずっと後になってからです。
宮野:ホストファミリーのお父さんが心臓発作で亡くなってしまったんです。もともとその人と働きたくてやっていた仕事だったし、9.11以降アメリカ国籍以外の人はあまりウェルカムじゃない空気が出てきていたので、帰国を決めました。ただ、そのときは日本のコーヒーチェーンにでも就職してしばらく働いて、ひととおりノウハウを覚えたらまたアメリカに帰ってこようと思っていたんです。でも、いったん帰ってみたら簡単にはビザが再発行できない情勢になっていて、結局そのまま日本にいます。