多かれ少なかれ、社会で生きる上で誰もが「本音と建前」を使い分けながら生きているのではないだろうか。しかし、次第にその暮らしに慣れてくると、どこからが自分の本音で、どこからが建前なのかを見失ってしまいそうになる。そこで、痛快に「それは建前ですよ」と言い切ってくれる人がいたら、頼もしく感じるかもしれない。

写真家・幡野広志さんは、まさしくそんな人だ。幡野さんは、2018年に血液のがんである多発性骨髄腫と診断された。写真家でありながら、メディアでの連載、SNSを通じて多くの人生相談にも答え、ときに相談者以上にその人の人生にまっすぐと向き合う姿勢と、鋭く歯に衣着せぬ物言いは、多くの読者の共感と反響を呼んだ。

写真家として、父として、そしてがん患者として。幡野さんの現在地から語られる、うそ偽りない “本音” には、幸せになるための哲学が詰まっているようだ。


34歳で「多発性骨髄腫」に。「生きるのがつらい」と思った

画像: 34歳で「多発性骨髄腫」に。「生きるのがつらい」と思った
―写真家としてご活躍されている幡野さんですが、写真の道へ進まれた理由はどんなところにあったのでしょうか?

幡野:高校を卒業後、数年はふらふらとしていたんですが、21歳のときに写真の専門学校に入学したのが入り口でした。ありがたいことに、入学してからすぐにプロの現場でのアシスタント生活もスタートすることができて。そうして実際に現場にいるうちに、実践的な経験を積んだ方が役に立つと感じ半年ほどで学校は中退しました。

―そこから本格的に、写真家としての経験を積んでいくわけですね。

幡野:写真家として好きなものを作品として撮っていくだけでは食べていけないので商業的なフォトグラファーとして活動していました。画家と似ているかもしれません。画家一本で生活するのはむずかしいから……と、イラストレーターの仕事なんかをしたりしますよね。

それで27歳のときに独立をして、仕事をしながら同時に作品を撮って……。商業的フォトグラファーと写真家としての苦労を重ねているうちに、結婚をして子どもが生まれ、今に至るという感じです。

―2018年、34歳のときには血液のがんである「多発性骨髄腫」と診断され、公表もなさっています。公表されたのには、なにか理由があったのでしょうか?

幡野:仕事を休まなければいけなかったので、言わざるを得なかったというのが、理由として大きいですかね。

診断翌日も仕事だったんですが行けるわけもないので、まずはその担当者の方に「僕、がんみたいなんです」と連絡をして。だけど一人に連絡すると、狭い業界なので、「カメラマンの幡野さん、がんらしいぞ」ということが人伝いに回る。そうすると、心配でみんな電話をかけてきてくれて、着信が止まらなくなりました。

だけど毎回、同じ説明をすると労力がかかる。そこで「SNSで書けば説明が1回で済むな」と思ってアップしたんです。そしたら見事に逆効果。見た人からまた大量に着信が来るっていう(笑)

通知が途切れず、電話に出るしかないし、バッテリーもなくなるしで、もうどうしようもない。その頃はずっと入院していたんですけど、一時退院した日にスマホの解約をしに行きました。「もう無理」という感じで。

―スマホを解約するほどの連絡があったと……。がんと診断されたときの心境を伺わせてさせてください。

幡野:僕の場合、告知を2回受けたんです。1回目は、MRIで撮影をして「これはがんだね」と。だけど、それだけでは何のがんなのかが特定できないから、大学病院に紹介されて、検査手術を受けて確定診断をするわけです。これが2回目。

その「がんだね」と「確定です」という2回の告知の、はざまの期間。そこはメンタル的にかなりやばかった。相当落ち込みましたし、生きているのがつらいとも感じましたね。

―身体的な部分での辛さもありましたか?

幡野:それもあります。まったく痛みがない、苦しくない、自覚症状がない状態だったら「何かの間違いだろう」と思えるかもしれませんが、つねに激痛があるから自分で間違いないってわかるわけです。しかも神経痛だから、一般的な鎮痛剤が効かないんですよ。突き刺すような痛みが各所にあって眠れないし、あれは拷問に近かったな。

もちろん「早く名前のつく病気と診断してくれ」という焦りからくる苦しさもあったと思いますよ。

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