悔しさをバネにして、海外留学へ

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――海外の話題が出ましたが、平野さんは2016年に海外留学もされています。語学学校に通いながら、ボイストレーニングを基礎から学びなおされたんですよね。

平野:きっかけは主演ミュージカルの再演のため。子役の頃はミュージカルのオーディションを受けても全部落ちてしまっていて。大型ミュージカルのオーディションに合格しはじめ、活動の軸を少しずつ舞台に移し、ようやく夢が叶ったとうれしく思っていました。それと同時に、無事に選ばれたものの、それでもミュージカルや舞台畑で育ってきた方々と同じ土俵に別ジャンルで活動していた自分が立つことへの不安も大きかったです。そしてついに掴んだ、帝国劇場・世界初演の主演という大役。万全の態勢で挑みたかったものの、初演時にはまだレギュラーの仕事も多くあって、レッスンを受けに行く時間が取れない、技が磨けない。その結果、悔しい思いをしたんです。

――満足いくお芝居ができなかった、と。

平野:はい、残念ながら。よくも悪くも、体当たりで必死に食らいつくことしかできませんでした。でも初演が終わり、3年後に同じキャストで再演することが決まって。だったら3年間をフル活用して成長しなければと思い、すべての仕事を辞め、ミュージカルの本場であるニューヨークで勉強することを決めました。

実はこの主演舞台の最中に父が亡くなったんです。海外で仕事をするのは父との約束でしたし、このタイミングで行くしかないと。声優としての仕事に追われていたときは、大きな流れに飲み込まれてしまっていましたが、ここからの人生は自分の計画で動いてみようと思いました。関係者に頭を下げて、思いを伝えて……。そうしてなんとか半年間のお休みがもらえたので、アメリカに発ちました。

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――アメリカでの半年間はいかがでしたか?

平野:最初はとても大変でした。日本にいる頃から英会話スクールに通って、英語の勉強はしていたんです。しかも、3箇所も。なのに実際現地に行ってみたら、多国籍の環境で全然伝わらない。スピードが速くて相手が言っていることもわからない。ショックでした。渡米してすぐに身体も壊しちゃって寝込んでいるのに、食料や薬の調達もできませんでしたね。語学学校での寮生活は肌に合わず、ボイストレーニングを紹介してくれるはずの知人とも連絡が取れなくなってしまったりと、散々でした……。

でも、自分から動かないままじゃアメリカまで来た意味がないからと、現地でイチから歌の学校を探し直して。手あたり次第アポイントを取って、レッスン場に足を運ぶのを繰り返していました。するとすごく良いレッスン場を見つけることができて、そこでやっと学校終わりにボイストレーニングに通える日々がスタートしました。

――ほかのレッスン場とはどうちがったのですか?

平野:もともと日本でも学んでいた発声法を、実技だけでなく座学で教えてくださる授業や、 自分の歌いたい曲・ジャンルによって先生をチョイスしてくれるシステムがある学校でした。幅広く学びたいと思っていた私にとっては、とても合っている学校でしたね。日本にいるときは「点」だったものが、骨格や筋肉の使い方を学び、だんだんと「線」になっていく感覚があって。息の長い役者を目指すうえで、日常生活のちょっとした癖などに自分自身で気づき、修正していくやりかたを教えてもらいました。

実際、日本に戻ってきてからも、アメリカで学んだことがさまざまなお仕事に活かされていると感じます。

――周囲の反応も変わりましたか?

平野:まず、目標としていた3年後の再演で、「すごく変わったね!」と言ってもらえるようになりました。技術だけでなく、メンタルも鍛えられ、現場での居方も変わったのだと思います。前回は自信のなさや、不安が前面に出ていたんだなと。

時間をかけて準備をするということでいうと、演目や実在の人物のゆかりの地を訪れて、歴史や景色を肌で感じるという体験もやっぱり私には必要で。じっくり時間をかけて役作りに取り組むことで、役柄への理解を深め、演じるときにお客さまにもその景色や空気を感じてほしいんです。そういった意味で、レッスンと同じくらい、私にとって“旅”も重要なことなんだと思います。

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