ブレイクして感じた、「肩書き」の不自由さ

画像1: ブレイクして感じた、「肩書き」の不自由さ
――その後、大学に進学されますが、ちょうどそのタイミングで主演を務めたアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』が大ヒットしましたね。

平野:それまでの私は、声優としてちゃんと勉強してきたわけじゃなかったので、当時はすごく混乱しました。右も左もわからず必死でやっているなか、なにやら作品がいろんなところで盛り上がっている。しかも日本だけでなく地球の裏側でも楽しんでいる人がいるらしいと……。でもそんな現実を、どこか他人事として捉えていた気がします。

いまだにあの時期のことを、夢だったんじゃないかと思うことがあります。人生で何十年もかけて経験するようなことを、当時10代だった私がたった1年で経験してしまったような、物凄い時期でした。

ただ、あまりにも目まぐるしくて大学生活と両立させるのも難しく、大学は半年で休学。その後、一年生が終わるタイミングで退学しました。

――では、大学生活を謳歌する……なんてこともできなかったのでしょうか?

平野:まったくできませんでした。友達を作るタイミングすらなかったですし、「このまま私はどこへ行っちゃうんだろう」と不安になるくらい忙しかったです。自分のなかでは、芸能を一生のお仕事にする覚悟はできていましたが、元々は舞台俳優になりたいという夢を持っていたので、当時のお仕事は想像していた人生設計から大きく外れていた。それでも、目の前のことに一生懸命取り組むだけでしたね。

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――芸能の仕事が軌道に乗るなかで、悩みはありましたか?

平野:当時、声優の現場にいると「余所から来た人」として見られがちでした。「テレビ業界から来た人」って。その後、声優業が忙しくなってきて、それでバラエティ番組とかに出演すると、今度は「声優業界から来た人」と言われる。今では「舞台の人」といわれるようになりましたが、どこに行っても「余所から来た人」だと思われてしまうので、自分はどんな肩書きで生きればいいのかわかりませんでしたね。

――「声優」として紹介されることへの葛藤があったのですね。

平野:日本って、職人気質の人が多いじゃないですか。ひとつの分野に精通していて、それを突き詰めていくような。だから細分化された肩書きを名乗っていても不便ではない。ただ、いろんなことを満遍なくやるとなると、どうしても肩書きがネックになってしまうこともあると思うんです。“演じる”という意味において、声優のお仕事は、あくまでそのなかのひとつという認識でしたから、大きく「俳優」として捉えていただけないことに悩んでいました。その点、アメリカなんかだとマルチプレイヤーであっても「俳優」で済んでしまう。

実際、私が『レ・ミゼラブル』に出演した際も、アメリカでは「あのハルヒが『レ・ミゼラブル』に出ているぞ!」とニュースになったのですが、現地の人たちは私を「声優が舞台に出演している! イレギュラーだ!」として見たのではなく、「俳優、平野綾」として見てくださっていたと感じました。細かなカテゴリーで分けない“カルチャー”がそこにあった。それがとてもありがたかったですね。

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