10年後の自分が想像できるのはおもしろくない

画像: 10年後の自分が想像できるのはおもしろくない
―再び演劇と接点を持ったのはどのタイミングでしたか?

曽根:会社で芽が出なくてどんどんモチベーションが下がっている最中でしたね。「自分が馬力を出せるものを見つけないとまずい」という危機感を覚えて、好きで見続けていた演劇を仕事にできないか改めて考えてみたんです。仕事をしながら、大学のあの授業で出会った平田オリザさんが設立された演劇学校に入学を決め、そこで演劇と再会しました。最初は仕事と並行していたのですが、だんだんと手が回らなくなってきて。どちらかを選ぶ選択に迫られ「演劇を仕事にしたい」と思ったんです。

―苦労して手応えを掴んだ仕事を手放すのは大きな決断だったと思います。迷いはなかったですか?

曽根:確かに軌道にのって、やっと評価されてきたタイミングでした。でも同時に「自分はこういう風に進んでいくんだろうな」って道筋がだんだん見えてきて、それに呼応するように仕事への興味が薄れてきた頃でもあって。予想外のおもしろさが生じる環境に身を置きたい私にとっては、10年後の自分が想像できてしまうのはおもしろくなかったんです。演劇はありとあらゆるものをつぎ込んで作るため、自分の経験をすべて投入できる。あっちこっちに好奇心が向いてしまう性格の私と相性がよかったと思います。

―それからどのようにドラマトゥルクとしてのキャリアを作られてきたのでしょうか?

曽根:特定の誰かのやり方を真似るというより、その時々出会う人の仕事ぶりを見て、自分のスタイルを考えながら進んできている感じがします。

特に今の自分を支えているのは、駆け出しの頃にポーランドで作品作りをした経験。ワルシャワで暮らしながら、ドラマトゥルクとして演出家や俳優と一緒に作品について議論をする毎日でした。そして、初めてチームでドラマトゥルクを務める現場でもありました。他のドラマトゥルクの先輩方は専門分野を持つ研究者や翻訳者で、私は作り手と一緒に演出やリサーチ方法を考える伴走タイプ。それぞれが作品の全然違うところを見ていて、転がしたい方向性も全然違う。先輩から学ぶことも多かったし、私が未熟な目として存在する意義も感じられたんです。

画像: ▼(左)ワルシャワで過ごしたアパート。(右)現場に持っていく資料と本。プロジェクトが進むと参照する本も増え、とにかく重いそう。

▼(左)ワルシャワで過ごしたアパート。(右)現場に持っていく資料と本。プロジェクトが進むと参照する本も増え、とにかく重いそう。

他者のスタイルに触れることって、キャリアを作る大きなヒントになりますよね。今までは仕事の現場以外で同業の方と交流する機会がなかなか得られなかったのですが、つい最近、日本で初めて「ドラマトゥルクミーティング」が開催されました。学生も含め、これからドラマトゥルクを目指したい方もたくさん参加されていて。同業同士で刺激し合える場ができてきたと思いますし、今後日本でドラマトゥルクが根付き、多くの作品に関わる未来が意外と近くにあるのかもと、胸が高鳴っているところです。

ー曽根さんのようにドラマトゥルクの道を選ぶ方が増えそうですね。

曽根:キャリアの選択肢として捉える人が増えたら嬉しいですね。私自身、「道を選んだ」というより「選択肢のひとつ」という感覚なので。演劇も、何かを表現するための枠組みのひとつ。自分が問いたいテーマがあって、それを表現する枠組みとして演劇という方法が一番しっくりくることが多いという感覚です。

例えばコロナ禍では、クラスター発生を防ぐために劇場を閉めるという動きが起こりましたよね。職場が突然「感染源だから行かないほうがいい」場所になって。衝撃的でした。その時浮かんだ問いが「表現のために本当に劇場は必要?」ということ。それを確かめるためにオーディオだけの演劇作品を作りました。

自分が探求するテーマを、どうやったら共有できるのか。常に選択肢を広げながら、ドラマトゥルクとしての活動以外に複数のプロジェクトに取り組み続けています。

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