スリランカで学んだ、幸せを肯定する「利他の精神」の解釈
アカリ:それが、スリランカ時代は結構つらい思い出が多くて……。7人部屋の共同生活でいじめに合ったり、食べ物は全部決められていて衣服も制限があったり、日本が恋しくなったこともありました。でも何より大きかったのは、当時の「仕事」のことです。
その頃の私は、ヨガ哲学も学び、実践していて「利他の精神」を掲げながら他の人の分まで働いていました。私が期待したのは、一緒に学ぶ人たちが「あの人が頑張っているから、私も頑張ろう」となることでしたが、スリランカでの修行の場面においてはその逆で、「あの人が頑張ってくれるから、私はサボってもいい」となってしまった。
私が頑張れば頑張るほど、周りの子たちにはサボり癖がつき、私の仕事はどんどん増えていく。だんだんその環境が辛くなり「私はここにいるべきではないのかも」と思うようになっていったんです。
アカリ:はい。「利他の精神はいいもの」と信じていましたが、それは場合によっては違うのかもしれない、と初めて感じました。
ただ、利他の精神よりも自分の気持ちを大切にしようとすると、「逃げているだけなんじゃないか」とか、「弱いだけなんじゃないか」という自分への葛藤も同時に生まれてきます。
アカリ:それは結構しんどかったですね。かつての恩師にも相談してみたんですが、あまり相手にしてくれなくて……。「なんで話をきいてもらえないのだろう」とイヤな気持ちにもなりました。でもそうすると、「恩師に対してイヤな気持ちを抱く自分がダメなんじゃないか」と、そんな気持ちも生まれてくるわけです。
自分で学んだことが自分を縛り付けて、本当の気持ちを制限してしまう。その事実がとてもつらかったですね。
その後、自分で考えを整理する中でたどり着いたのは、「自己犠牲からは何も生まれない」という結論でした。古典ではアーユルヴェーダを「幸せになるための学問」として定義する言葉があります。つまり、アーユルヴェーダは「幸せ」を肯定しているわけで、自己犠牲による利他を推奨しているわけではない。
それで、「まずは自分が幸せで、そこから溢れるものを人に与えなければ、利他の精神も意味がないんだ」という考えに至りました。自分としっかり向き合って考え抜いたことで、すっと気持ちが楽になりましたね。
アカリ:「正直に言うと、いま、どうしたい?」と自分に聞いてみたら、「スリランカから去りたい」という気持ちがいちばん大きかったんです。それで、スリランカでの修行を終えて、日本に帰るという決断をしました。
アカリ:そうです。多分、それまで学んできたことって、読んだものをそのまま受け取るような表面的な理解だったのだと思います。同じ言葉も、もっと深く考えていくと、場面によって捉え方や人への伝え方も変わってくるのかもしれないと。
その出来事をきっかけに、学んだと思っていた知識もまた違う捉え方ができるようになり、スリランカでの修行を通して身につけた、大きな気づきになりました。
スリランカから帰ってきたあと、「まず幸せであること、豊かであること。ただし豊かでありつつ、時にはそれを捨てられる心の余裕を持つ」という考え方にも出会えました。あのとき、スリランカから去る、という決断も自分にとっては必要な経験だったのだと、後々肯定されたような気がしましたね。