炎天下の名古屋。ナゴヤドームで撮影を終え、取材先へと向かう齊藤さんの愛車内には、2008年にヒットしたレミオロメンの『もっと遠くへ』が流れていた。
「何度聴いても、いい曲ですよね。全てを捧げて必死だったあの頃の気持ちを忘れないように、こうして時々聴き返すんです。自分の気持ちを奮い立たせるために」
この曲がリリースされたその年、現在はプルデンシャル生命のライフプランナーとして活躍する齊藤信介さんは、プロ野球球団・中日ドラゴンズの投手として1年7カ月ぶりに一軍に出場し、プロ初勝利を挙げた。
2012年、プロ野球選手を引退。球団職員としての経験を経て、齊藤さんはプルデンシャル生命の門戸を叩いた。その忍耐力や負けん気の強さを武器に、営業の猛者が集う同社で入社初年度から華々しい成績を残し注目を集めた齊藤さんだが、一度は会社を「嫌い」になるほど迷いが生じた時期もあったと話す。そこから、どのようにして自分らしい働き方にたどり着き、再び「会社がとにかく好きだ」と笑えるようになったのか——。
何かを達成した時よりも、夢を追いかけて努力する"しんどい時"のほうが楽しいとはにかむ彼の、その芯の強さの源流を辿ってみたい。
齊藤信介(さいとう・しんすけ)
香川県で生まれ、小学校4年生から野球を始める。大学卒業後、社会人野球・NTT西日本でプレーしたのち、2005年に中日ドラゴンズに入団。選手を引退後は球団職員として法人向けの営業を経験。2015年3月、プルデンシャル生命に入社。
厳格な父に叩き込まれた「筋を通す」生き方

齊藤さんの価値観の根幹を形づくったのは、厳格な父親の存在だった。香川県で一人っ子として育ち、昭和の団塊世代らしい厳しさを持つ父親から、挨拶や約束を守る重要性を徹底的に叩き込まれた。
「今とは時代が違いますし、口と手が一緒に飛んでくるような人で、靴が揃っていない、挨拶ができないといった些細なことでも容赦なく叱られました」
その厳しさを物語るエピソードがある。中学時代、テストで5科目合計472点という、学年でも2、3位の高得点を取ったにもかかわらず、1科目が89点だったために厳しく叱責されたという。
「『全科目90点以上を取る』という約束だったんです。当時は十分いい成績なのにと思っていましたが、今思い返すと『なるほどな』と。たとえ1点であっても、約束は約束。社会に出たら、この考え方がいかに大事か、身に沁みてわかるようになりました」
一度決めたことは必ずやり抜く、有言実行な人間であれ——。
【My Rules①:自分の「筋」を貫く】
「補欠は補欠なりの努力がある」——野球が教えてくれたこと

小学4年生から野球を始めた齊藤さん。実は「スポーツが全然好きじゃない」と言い切るが、当時はプロ野球選手が子どもたちの憧れの職業、1位、2位を争うような時代。野球を始めたのは自然なことだった。
高校は、文武両道をモットーとする進学校に進み成績もよかったが、父親から「勉強するか野球するか、どちらかに専念しろ」と迫られ、野球の道を選択した。しかし、大学1、2年生のころはレギュラーになれず、苦しんだ。
転機は3年生の時の監督交代。新監督は「9回の裏、ツーアウトの場面で、誰がヒットを打てるか。それは四の五の言わずに努力してきたやつなんだ」という哲学の持ち主だった。
「俺は才能がないのかもしれない。だからレギュラーにもなれない。そう思って腐りかけた時に、『補欠は補欠なりの努力があるだろう』と、教えてくれたのが監督でした」
※落合博満氏…元プロ野球選手・監督。現役時代は「神主打法」で史上唯一の3度の三冠王を達成。監督としても中日ドラゴンズを4度のリーグ優勝、日本一に導いた。

「落合監督は、『どうやったら勝てるか』という本質的なところを追求し続ける方でした。『下手なら練習しろ』と、選手には勝つための努力を求め、監督自身は着実に勝てる方法を選択する。とてもシンプルです。それでいて、とても情に厚い。マウンド上ではいつも『思い切っていけ。大丈夫だから』と声をかけてくださいました」
「努力」をし続ける力に加えてもうひとつ、野球は齊藤さんに、データでは表せない「感覚」を研ぎ澄ます能力を授けた。
マウンド上で相手バッターと対峙する瞬間に、選手の目の動きや仕草からコンディションを読み解き、最善の一球を導き出す。そうした環境で培われた「大局観」は、現在の営業活動においても、顧客の本質的なニーズを汲み取る力として開花したのだろう。
