好きだから、茨の道でも飛び込みたかった

菊野:時計の本場・スイスで通訳の仕事をしている方が、僕のいた専門学校に遊びに来たんです。その方は独立時計師のフィリップ・デュフォー先生と懇意にされていて、「面白いもの作ってるね!デュフォー先生にも見せたい」と言ってくれました。試作品の写真をお渡ししたところ、なんと先生本人から「実物をぜひ見てみたいからスイスのアトリエにおいで」とお誘いいただいて。実際にスイスへ足を運び、実物をみた先生からもらった言葉は、「来年のバーゼル・ワールドに出展してみないか」でした。
バーゼル・ワールドは、世界最大の時計の見本市。ここに出展することは、独立時計師の看板を掲げるのと同義とも言われています。
菊野:嬉しかったです。ただ、一瞬、迷いました。まだ独立時計師としてやっていけるレベルに達していないんじゃないか、このレベルで出展したら批判されるんじゃないか……と。でももしここで断ったら、こんな機会はきっと二度とこない。僕は時計を作って生きていきたいんだ。そう思ったから「ぜひお願いします」と返事をしました。
出展を果たしてからも、時計が売れるまでは「この先どうなるんだろう」という不安がずっと頭の片隅にありました。初めて時計が売れたのは29歳のとき。作り始めて7年が経ったころでした。嬉しい以上に、安心しましたね。自分の時計を「いい」と言ってくれる人が、少なくとも1人はいるんだって。

菊野:当時はビジネスや将来のことなど考えず、「自分が作りたい時計」にひたすら向き合っていましたね。作ることに没頭している間は楽しくて不安を忘れられたので、ある意味現実逃避だったかもしれません。そんな僕を運よく見つけてくれる人がいて、時計作りを続けられるチャンスや出会いを与えてくれた感覚です。
菊野:僕の経験則としては、やらずに後悔するよりやって後悔したほうがいいよ、と言いたいです。昔「迷ったら茨の道を行け」という言葉をどこかで聞いたことがあって、それが僕の指針になっています。
あのとき、もしデュフォー先生からの出展の誘いを断っていたら先が見えないままだったでしょうね。飛び込んでみて後悔していません。これからも、過去の選択を「よかった」と思えるように「今楽しい」と言える状態でいたい。楽しいから時計を作っていますし、楽しむことが人生の目的です。
お客さまに喜んでもらえても、自分自身がつまらなかったらもったいないじゃないですか。せっかくエネルギーも時間もたくさん投入するんですから、そこに携わる人みんなが楽しくありたいですよね。

菊野:楽しいですね。先が見えない状態で時計を作っている時も、苦しみながら努力してきたという感覚はなくて。愛する時計作りができる環境を維持するために、ただただ熱を注いできたなと思います。