前人未到の偉業を達成した人を前にしたとき、「この人は特別なんだ」「私とは違うんだ」と思ってしまうことがある。今回のミモザなひと、野口聡一さんに対してもきっとそうだろう。1996年に宇宙飛行士候補者に選ばれ、2005年には宇宙へと飛び立った。計3回の宇宙飛行、4回の船外活動。そして「日本人初・ソユーズ宇宙船の船長補佐」をはじめ、さまざまなミッションで実績を残し、一躍、国民的ヒーローとなった人物だ。

しかしお話を伺ってみると、決して「自分とは違う、特別な人」ではない一面も見えてくる。野口さんはこれまでの人生を振り返り、「地球に帰還してからの10年間、寂寥感(せきりょうかん)や喪失感に押しつぶされそうだった」と明かした。つまり「弱さ」を抱えていたのだ。それは、野口さんが私たちと変わらないひとりの人間であることを示している。

だからこそ、聞きたい。弱さや葛藤を抱えながらも、私たちは他者や社会とどう関わって生きていけばいいのか。野口さんは一体、どんな答えを見せてくれるのだろう。


テレビアニメや映画を通して育まれた、遠い宇宙への憧れ

画像1: テレビアニメや映画を通して育まれた、遠い宇宙への憧れ
――野口さんは子どもの頃から「宇宙」に興味を持っていたのですか?

野口:僕が子どもの頃、宇宙を題材にしたテレビアニメや映画が多かったんです。ロケットに乗って広大な宇宙を飛び回る様子を描くような作品を観ては、漠然と宇宙に対する憧れを抱いていました。

とはいえ、ごく平凡な子どもだったと思います。どちらかというとアウトドアが好きで、ボーイスカウトに所属していたので、ハイキングやキャンプなどのアクティビティによく参加していました。友達と広場で草野球をするのも好きでしたね。振り返ってみればとても牧歌的な時代だったので、のんびり過ごしていたように思います。

――「漠然とした憧れ」は、いつ頃から将来の夢へと結びついたのでしょうか?

野口:高校1年生の頃です。多くのギャラリーが見守るなか、スペースシャトルの第一号機・コロンビア号が打ち上がる様子をニュースで見て、「いま、宇宙飛行士が宇宙へ飛び立ったんだ!」と衝撃を受けました。それまでに書籍を通じて人類初の月面着陸などは知っていましたが、人類が宇宙へ行くところを目の当たりにして、リアルタイムで追いかけたのは初めてでした。「本当にこんな風にロケットを打ち上げて宇宙に向かうんだ。宇宙飛行士って、かっこいいな。面白そうだな」と強く胸に残りました。

実際に学校の先生との進路相談でも「宇宙飛行士になりたいです」と伝えたんですよ。ただ、当時、宇宙に行ってみたいと思うような男の子は多かったですし、先生も僕がどこまで本気なのか測りかねたみたいで、とても困っていましたね(笑)。そうはいっても周りに宇宙飛行士なんていないし、「夢は夢としてわかるけど、現実的には難しいんじゃないか」と。結果、その夢に少しでも近づけるかもしれないと、航空学科への進学を勧められたんです。

画像2: テレビアニメや映画を通して育まれた、遠い宇宙への憧れ
――そうして野口さんは東京大学工学部航空学科を卒業され、石川島播磨重工業(現:IHI)に航空技術者として入社されます。

野口:当時はジェット機のエンジンを製造する会社だったので、そのエンジンの研究開発に従事していました。社会人になって初めて入った会社ということもあって、いろんなことを勉強させてもらいましたし、やりがいを覚えていましたよ。

――そんな日々のなか、NASDA(現:JAXA)が募集していた宇宙飛行士候補者に応募されたんですよね。

野口:そうです。もともと宇宙飛行士になりたいという気持ちを持っていたものの、応募するには社会人経験がないとだめでした。だから大学を出てすぐ応募、というのは無理で。社会人経験を積みながら、そのチャンスを待っていました。

とはいえ、毎年募集されるわけでもなく、僕のときはたしか4年ぶりの募集だったはずです。それを知って、すぐに受かるわけがないとは思いつつも、せっかくのチャンスだし挑戦してみようと思い立って。

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