教えるのではなく、生き方でみせた父
北村:そもそもの題材選びから、ねぶた全体のデザインを決める下絵、下絵を立体に起こす骨組み、形を浮かび上がらせる紙はり、そして彩色。何から何まで面白くて、父の仕事を見てはノートにびっしりと書き写していました。
知れば知るほど、「こんなに面白いものがあるのか!」という気持ちになるし、どんどんねぶた作りにのめり込んでいく。生き方に迷っていた時期でしたが、「やりたい」と思える仕事がこんなに近くにあったのかと。
「生涯の仕事になるか……」とか「ねぶた師になる覚悟は……」なんて一切考えていなくて、自分の中の衝動に突き動かされているような感覚でした。そこで初めて、「ねぶた師になろう」と決めたんです。
北村:最初は、父も「なんで仕事場に来ているんだ?」くらいの感じで、私がいようがいまいが何も変わりませんでしたが、私が真剣にねぶたと向き合っているのがわかると、少しずつ仕事を任せてくれるようになりました。
それでも、“教えてくれる”ということはなかったですけどね(笑)。仕事はすべて、父の見よう見まねです。そんな日々が3年ほど続きました。
北村:「ねぶた師」って、資格とかの名前じゃない。じゃあどうやったら名乗れるかというと、スポンサーからの制作依頼が来ることが第一条件なんです。ふつう大型ねぶたを作れるようになるまでには、師匠に弟子入りしてから10年以上かかると言われています。それが、私のときは4年目。「北村隆の娘」というフィルターはきっとあったはずです。父の影響は、とても大きいと感じました。
でも当の私は、「さあ、これから父に技術を教わるぞ!」と意気込んでいた時期。未熟なまま世に出て身心がズタボロになるのは嫌だし、父からも「まだ早い」と言われていて……。せっかくのオファーでしたが、声をかけてくださった実行委員会の方に親子でお断りをしにいったんです。
北村:お声がけをしてくださった青森市民ねぶた実行委員会の責任者の方が、「一人前になるために勉強が必要なのであれば、大型ねぶたを作りながら3年間勉強しなさい」とまで言ってくださって……。そこまで言われたら、なかなか断れないですよね。
最終的には父も、自分が弟子の時代には20年間チャンスに恵まれず悔しい思いをしたという話を聞かせてくれて、「次のチャンスはいつ巡ってくるかわからないなら、やってみたらどうだ」と。それで大型ねぶた作りに挑戦することにしました。
北村:自分の人生をかけてまで夢中になれるものって、おそらく誰もが見つけられるようなことではないと思うんです。私は幼い頃から、ねぶたに情熱を注ぎ、本気で喜び、悔しがり、苦しむ父の姿を見てきました。
だからこそ、ねぶたの楽しいところも厳しいところも含めて、どれだけねぶたが面白いものかということに気づけました。
弟子入り後も、手取り足取り何かを教わったことは一度もなかったけど、私は父の生き方に触れて、「人生をかけてもいい」と思えるものに出会えた。それを教えてくれた父には、感謝しかありません。