「人は誰でも/(スラッシュ)である」――。これは文筆家の藤岡みなみさんがミモザマガジンのエッセイで綴った言葉。「/(スラッシュ)」とは、台湾の政治家・プログラマーであるオードリー・タン氏が生み出した言葉で、複数の肩書きを持つことを表している。

藤岡さんは、仕事の面では文筆家・ラジオパーソナリティ・書店の店主、ドキュメンタリー映画プロデューサー、プライベートでは妻であり母……と、たくさんの肩書きを持ち、そのどれにも縛られずに生きている「ミモザなひと」だ。

彼女のキャリアのスタートは早く、子役時代までさかのぼる。華やかな芸能界を生き、一度は表舞台から降りたものの、再びラジオパーソナリティになり、文筆家になり、そして母になった。どれかひとつを極める選択もできたのかもしれない。だが、なぜ藤岡さんは、「スラッシュ」な生き方を選んだのだろう。彼女が歩んできたキャリアと考えを紐解いていく。


仕事では自分の「すり減らない部分」を使うことが、心地よいと気づいた

画像: 仕事では自分の「すり減らない部分」を使うことが、心地よいと気づいた
―たくさんの肩書きをお持ちの藤岡さん。ミモザマガジンのエッセイでは、「いろいろやりすぎているせいで、全部中途半端なんじゃないか……」という不安を抱いていた過去にも触れられています。

藤岡:「肩書き問題」ありますよね。人は他者を理解しようとする時、肩書きで判断してしまうことがある。

肩書きがたくさんあると「じゃああなたはつまり何者?」と問われがちで。でもずっとひとつの仕事をしている人だって多面的な存在だと思うんです。部下だったり、先輩だったり、親だったり、1日のうちに役割や表情もくるくる変わる。

人間はそもそも多面的だし、多面的な肩書きを全部私ですって言い切ってもおかしくないなと気づきました。

―エッセイを読んで強く共感した部分です……!多くの肩書きをお持ちになる経緯は後ほど伺うとして、まずは新しいことに次々と挑戦される藤岡さんの「挑戦する原動力」がどこにあるのかを伺いたいです。

藤岡:例えば、最近は新しいメディアの立ち上げにかかわったり、本の編集者としての活動を始めたりしました。恐らく私は、「自分の知らないことに、初めて挑戦する」という部分に価値を感じるタイプ。ただ「やりたい!」という気持ちで始めることもありますし、人に誘われたからやっていることも多いです。

振り返ってみると、「今までに経験したアレとコレがつながってる」と感じてうれしくなることもあるし、今はつながっていないこと同士でも、いつかつながるかもしれない。そういう未来にはとてもわくわくします。

―新しいことに挑戦することは、怖くはないですか?

藤岡:怖い、と思うのはきっと「失敗したくない」と思うからですよね。もちろん私も失敗って怖いです。でも、失敗するとラジオで話すネタが増えるんですよ。なにも不自由なくスムーズに成功しちゃうと、話すことがなくなるんです。大袈裟じゃなく、10年前にラジオを始めてから失敗の捉え方が変わりました。

とはいえ、やっぱり失敗したらすごくすごく落ち込みます。自分で自分を責めて、「ここがダメだった」ってどん底まで下がっていくこともある。それはもう、スポーツをするとか、お酒を飲むとかで軽減されるような軽い落ち込みじゃないです。それでも1週間くらいすれば少し回復するけれど、渦中にいたらトンネルの出口の光なんて全然見えない。

―落ち込んでしまったときは、どのように回復していくのでしょうか?

藤岡:やっぱり時間はかかりますよね……。でも、自分の落ち込み具合を最小限にするための努力はしているつもりです。

「働く」ことって、社会との摩擦だと思うんです。自分と社会をこすり合わせて、ときにすり減らすことでなにかを生みだしている。だからそのこすり合わせる部分は、なるべく「自分のすり減らない部分」を使ったらいいと考えています。

それは偶然持って生まれた強い部分かもしれないし、これまで繰り返し”かさぶた”を作ることで分厚くなった部分かもしれない。
自分の弱い部分をもろに仕事に充てなくてもいいと思うんです。自分の弱い部分は、覆って、逃がすことも大切じゃないかと。

20代の頃は、傷つくことが大切なんだと思っていました。傷ついてこそ成長できる、強くなれる……って。でもあるとき気づいたんです。あえて自分の弱いところをすり減らさなくてもいい。いまは心地よくがんばることがちょうどいいし、結果的にそのほうが力を発揮できるとわかりました。


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