誰もが、自分のやりたいテニスを自由に選べるように

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――コロナ禍で思うように活動できない時期はあったものの、定期的に練習会や国内大会を開催できるようになり、JASTAは着実に活動を広げていらっしゃいます。手ごたえも感じられていますか?

柴谷:おかげさまで、大会に協賛いただける企業や団体は少しずつ増えてきました。ジュニア育成のプロジェクトもはじまり、民間の「Ken’sテニススクール」では、肢体障がい者向けのクラスも設けていただいています(※現在の参加者はJASTAメンバーに限る)。

2021年からは僕自身が日本テニス協会JTAの多様化テニス委員会にも参加し、横のつながりもうまく活用しながら、さらなる発展を目指しています。コロナ禍で二度延期になったのですが、2025年には日本ではじめての国際大会を開催する予定です。

――柴谷さんのいまの目標は何ですか?

柴谷:立位テニスをパラリンピックの正式種目にすることです。そのためには世界じゅうに選手の数を増やし、各国の国内大会や国際大会を整備して、国際テニス連盟ITFの承認を得ることが必要。日本ではまず、選手の数を増やすのが一番の課題ですね。数年以内には各都道府県に、20以上の支部を設立したいと考えています。

だからいまは、とにかく情報発信が大切。車いすテニスが普及するまでには15年ほどかかりましたが、インターネットがある現代では、うまくいけば3~5年程度で認知を広げられるのではないでしょうか。いろんな世代に立位テニスを届けるべく、情報発信はFacebookにYouTube、Instagram、X、TikTokといったさまざまなツールを使い分けています。妻と一緒に試行錯誤の日々ですね。いま国内のJASTA登録選手数は50名なので、2028年までには200名に引き上げたいと考えています。

ただ、僕はJASTAと並行して、福祉領域のテニスの協会理事もやっています。肢体障がい者がテニスをやりたいと思ったとき、車いすもニューミックスダブルスも立位も、誰もが自由に選べる環境をつくりたいんです。

――柴谷さんご自身が当事者とはいえ、誰かがそうした状況を整えてくれるまでは一プレイヤーとして待つ、といった選択肢もあったように思えます。どうして、そこまで一生懸命になれたのでしょうか。

柴谷:僕が左足を切断した骨肉腫という病気は、当時、5年生存率がたった5%しかない難病でした。同じ病気と闘っていて、死んでしまった仲間もたくさんいます。そのなかで「自分が生き残ったことの意味を考えたい」という意識が、つねにありました。だから、まずは過去の自分と同じように「障がい者はかわいそう」と思い込み、いろんなことをあきらめている人たちに「あきらめなくていいんだよ」「大丈夫だよ」と伝えたかったんです。

そんな想いでやってきたので、自分たちの大会にプレイヤーとして参加すると、感慨深いものがありますね。大会ができて、観客も入って、選手が皆いきいきとテニスを楽しんでいる。こういう場がつくれてよかったと、心から思います。

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柴谷健

1964年生まれ。子供時代、オーストラリアのシドニー在住時にテニスに出会う。骨肉腫により17歳で左大腿を切断、義足使用。障害等級は2種3級。本業は建築士としてspace design studio arcを主宰。肢体障がい者が車椅子を使用せず立って行うテニスの競技化を目指し、2018年8月に一般社団法人日本障がい者立位テニス協会を設立、代表理事を務める。自らも競技者として国内外の大会に出場し、本業と並行して立位テニスの普及発展に尽力している。

取材・執筆:菅原 さくら
編集:山口 真央
写真:梶 礼哉

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