パラスポーツのなかでも、大きな人気と知名度を持つ「車いすテニス」。その一方で、立って運動ができる障がい者には「立位テニス」という選択肢もあることをご存じでしょうか。

高校2年生のとき、病気で左足の大腿部以下を切断した柴谷健さんは、そんな立位テニスに打ち込む選手の一人です。「障がいを持ったテニスプレイヤーの選択肢を増やしたい」と、立位テニスを普及するために一般社団法人日本障がい者立位テニス協会(略称、JASTA)をみずから立ち上げました。

柴谷さんのこれまでを振り返りながら、立位テニスの現状やJASTAでの取り組み、そして今後の目標を伺います。

脚を切断して、激変した人生。障がいを隠す生活が21年続いた

画像: 脚を切断して、激変した人生。障がいを隠す生活が21年続いた
――柴谷さんが左足の大腿部より下を失ったのは、高校2年生のとき。後天的な病気だったのですね。

柴谷:高校1年生のとき、左膝がじんじんと痛んで、ゆで卵みたいなふくらみができたんです。検査をしたら「骨肉腫」(骨のがん)だと診断され、抗がん剤治療を開始。医師のみなさんはできるだけ脚を切断しないで済むようにと手を尽くしてくださり、その後、国内で2例目となる人工関節の手術を受けました。

でも、抗がん剤で血管が細くなっていたこともあり、術後の傷が全然ふさがらなくて……皮膚移植と手術を繰り返して2ヶ月近く経った高2の夏、自分から「もう切断してください」と申し出ました。それから40年以上、ずっと義足の生活です。義足で歩くための練習を充分に受けられなかったため、慣れるまでには時間がかかりましたね。

――練習をしないとうまく使いこなせないのは、想像に難くありません。当時はまだ、リハビリが充実していなかったということですか?

柴谷:それも多少はあるけれど、私は切断後にまた抗がん剤治療を控えていたため、リハビリの時間が充分に確保できなかったんです。まずはがん細胞をなくすことが優先。義足のほうは、そのあとでなんとかフォローしていこうと考えていました。とはいえ、最初のうちは歩くのも座るのも慣れなくてしんどかったですね。足があったころから大好きだったテニスも、封印せざるをえませんでした。

――大好きな趣味も手放すことになり、生活が大きく変わってしまったのですね。当時は、ご自身の今後について、どのように考えていましたか?
画像: ▲左足が義足であることを隠して生活していた頃の柴谷さん(ご本人提供)

▲左足が義足であることを隠して生活していた頃の柴谷さん(ご本人提供)

柴谷:障がい者手帳用の顔写真を撮ったとき、「これから障がい者としての人生が始まるんだ」と、とても暗い気持ちになりました。

障がいのある方とふれあったこともなかったので、その人生は、これまでの自分とは別の人生。もう別世界で生きていくのだと思い込んでいたんです。なので、周りにかわいそうだと思われないように、学校では障がいを隠していました。義足姿を見られると困るから、旅行や海はパス。いつも長ズボンを履き、ケガをしているだけだと言い張っていました。

一方で、人生についてはわりと前向きだったと思います。もともと好きだったスポーツはできなくなったけれど、座ってできる仕事に就こうと考え、興味のあった建築学を勉強。大学を出て、建築系の会社に就職しました。脚が不自由だと現場に行かせてもらえず、仕事の幅が狭まる気がしたので、会社でも人事以外には義足のことを隠し続けていましたね。

――義足のことを伏せた暮らしは、いつまで続いたのですか?

柴谷:38歳で結婚をするまでです。妻が「言っちゃえばいいじゃない。脚が一本あってもなくても同じ人なんだから」と背中を押してくれて、結婚披露宴でカミングアウトしました。少しざわめきは起きたけれど、想像していたような扱いの変化はとくになくて。もう嘘をつかなくてもいいんだと、気が楽になりました。

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