バレエの世界には、さまざまなヒロインがいる。たとえば恋する美しい町娘。たとえば白鳥に姿を変えられた姫……。今回のミモザなひと・飯島望未(いいじまのぞみ)さんは、国内外の大舞台で、多彩な表現をもって数多の役を演じ分けてきた。

6歳でバレエをはじめ、16歳のとき史上最年少でアメリカのヒューストンバレエに入団。22歳で最高位であるプリンシパルとなり、数々の名作の舞台に立った。現在は熊川哲也氏が代表を務めるバレエ団・K-BALLET TOKYOに所属。プリンシパルとして最前線で踊り続ける傍ら、ファッションモデルとしても個性溢れる姿で誌面を飾っている。

世界の舞台を生き抜けるほどの個性を、どうやって見つけ出したのだろう。彼女は飾らないようすで、こう答えた。

「自分の個性って、未だに私もわからない。探さなくてもいいのかもしれません、なぜなら……」。



「悔しい」から始まったバレエ人生。プロ契約まで無我夢中だった

画像1: 「悔しい」から始まったバレエ人生。プロ契約まで無我夢中だった
――6歳から今まで、ずっとバレエの世界で生きてきた飯島さん。バレエと出会ったきっかけを教えてください。

飯島:猫背だった私をみかねた母が、姿勢矯正のために近所のバレエ教室の体験に連れて行ってくれたのがはじまりでした。

初めて踊ってみた感想は「悔しい」。みんなができることを自分はできないのがめっちゃ悔しくて、恥ずかしかった。「できるようになりたい」という気持ちで始めて、そのまま今日まで続けてきました。相当な負けず嫌いですよね(笑)

プロになることを意識したのは、教室に通い始めてしばらく経ってからです。先生が観にいかせてくれた舞台でヒロインを演じていた森下洋子さんの姿に圧倒されて、プロへの憧れを抱いたんです。スポットライトを浴びてキラキラ輝くようなオーラと存在感を放つひと。「私もあんなふうになりたい」と思った瞬間でした。

※プリマバレリーナ(バレエ団の中でも最も高いランクに位置する女性の主役ダンサー)。日本人で初めて国際的に活躍したプリマとも評され、「東洋の真珠」の異名も持つ

――プロへの憧れを胸に練習を重ねる日々。どんなことを考えて練習に励んでいましたか?

飯島:同年代のよきライバルや先輩方がいたおかげで、プロになるまでの道を自然とイメージして頑張ることができていました。海外のバレエ学校に留学して、バレエ団と契約するのがよさそうだなと。

同時に、焦る気持ちもありました。私は四人きょうだいの長女。下の子たちがまだ小さかったこともあって、経済的な面で親から「バレエは続けさせてあげられない」と言われていたからです。

画像2: 「悔しい」から始まったバレエ人生。プロ契約まで無我夢中だった
――バレエを続けられるかわからない焦りがあったと。

飯島:はい。「スカラシップ(奨学金)を獲るから」「絶対プロになるから」と訴えて、何とか続けさせてもらって。だから15歳のとき出場したコンクールで入賞し、ヒューストンバレエのジュニアカンパニーへの留学権を得た後も無我夢中でした。

単身アメリカに渡ったあとは、プロのリハーサルにまざって踊る毎日です。留学期限は1年と決まっていたので、その間にプロ契約をもらえなかったら、バレエを諦めて帰国するしかないとまで思っていました。

バレエ以外の道は考えられないほど大好きだから、そうならないように必死でした。

――必死の努力を続けた結果、留学中にプロ契約を結ぶことができたんですね。

飯島:本当にほっとしましたし、嬉しかったです。どうして選ばれたのかは今でもわからないですけど、声をかけてくれた芸術監督からはとにかく「態度が大きかった」と言われていて(笑)。当時の私は負けず嫌いが表ににじみ出ていたんだと思います。まだ語学力も十分じゃなくて、リハーサルに入っても何を言われているのかわからない。何もできないでいると「もういい」と言われて交代を促される。

やる気満々なのに何もできないもどかしさと、自分への怒りが止まらなくて……。交代を促された際、たいていのダンサーはサササーっと小走りで移動する中、悔しすぎてズカズカとレッスン場を歩いていたので目立っていたみたいです。でもそういうところを欠点ではなく面白い子だと思ってくれたのかなと、今は考えています。

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