ダンサー、モデル、写真家……いずれも、ニューヨークを拠点に活躍する清水佑美さんをあらわす “タグ” だ。10代でストリートダンスにのめり込み、本場の空気を知るべく、ヒップホップが生まれたニューヨークへと旅行。スキルよりもパッションを重視するそのカルチャーに惹かれ、ここで自分のダンスを極めたいと、1年半後には本格渡米を果たした。

そこから数か月も経たないうちに、彼女が有名アパレルブランドの広告でダンスモデルを務め、ニューヨーク・ファッションウィークのランウェイを歩くとは、誰が想像できただろうか。

前に出ることを恐れずチャンスをつかみ、心が向かう方向に活動の場を広げ続ける清水さんに、行動力の源泉を聞く。



将来のことなど考えず、ダンス漬けの学生生活を送った

――幼いときはどんなお子さんでしたか?

清水:とても元気で活発な女の子でした。小学校のときは、授業が終わったらすぐ校庭に出て、男女関係なくドッジボールで盛り上がるようなタイプ。生まれてから10年は東京、3年間は大阪、そのあとは岐阜……と父の転勤について転校を繰り返しましたが、どこでもすぐに馴染めた方だと思います。それどころか引っ越してすぐ、合唱祭の指揮者に立候補したことも。女優や歌手に憧れていて、目立つのが好きだったんです。でもその反面、すごくシャイなところもあって。

――シャイだけど目立つのが好き?

清水:シャイだから人から注目をされるのはちょっと恥ずかしいんだけど、目立つようなすごいことをやれる自分にはなりたい、というか……。

すごいことを成し遂げて目立ったときの“達成感”が好きだったんです。

――清水さんといえば、まずはダンサーとしてのご活躍です。ダンスはいつから始めたのでしょうか?

清水:短大でダンスサークルに入り、ヒップホップとハウスを踊り始めました。授業が終わったらすぐスタジオに行ってレッスンを受けて、その後も朝方まで練習して、帰ってちょっとだけ寝たらまた登校して……の繰り返し。練習すればちゃんと踊れるようになるのと、個人のスキルで勝負できるのが楽しくて楽しくて、夢中でした。


――いずれダンスを仕事にしようという意識があったのですか?

清水:当時は細かいことはまったく考えていませんでした。仕事にするとか、そういうことよりもただただ上手くなりたかった。でも、世界一になれたらずっとダンスで生きていけるんだろうな、という漠然とした思いはありましたね。「ダンスの世界一」が何を指すのかもよくわかっていなかったけれど、短大卒業後はさらにダンス漬け。スタジオの受付やインストラクターのアシスタントをしながら自分の練習を重ね、指導のクラスも受け持つようになり、公私ともに踊る時間がどんどん増えていきました。


自分がやりたいダンスと、大きな目標に出会った

――その後、ニューヨークに留学をしたのは、どんな経緯だったのでしょうか。

清水:友達と一緒にニューヨーク旅行をしたのがきっかけでした。「いつかはヒップホップが生まれた場所に行ってみたい」と思っていたので、念願のニューヨークです。

わずか1週間ほどでしたが、クラブやスタジオで自分のダンスをとにかく楽しむアメリカのダンサーには大きな刺激を受けましたね。スキルが足りなかろうと、周りと揃っていなかろうと、前に出て思いきり楽しめばそれでOK。クラブで輪になって踊っているときも、私が下手なりに勇気を出して真ん中に飛び込んだら、周りのダンサーたちがとても盛り上がってくれました。

それから、私がやりたかったヒップホップとハウスを混ぜたスタイルを肯定してくれる空気もうれしかった。ニューヨークでは「2つのジャンルを混ぜて踊るの、かっこいいじゃん!」と褒められたんです。

――自分が本当にやりたいダンスと、ニューヨークで出会えたわけですね。
画像: 自分がやりたいダンスと、大きな目標に出会った

清水:タイムズスクエアを観光したのも、大きな転機だったと思います。巨大な看板のネオンがぎらぎらと光るなかを、たくさんの人が流れるように通り過ぎていく……その迫力に圧倒されました。ここが世界の中心なんだと。

そしてふと「自分がこの景色の一部になれたら、それってひとつの世界一なんじゃない?」と思ったんです。大きすぎる夢だけど、いつかタイムズスクエアのビルボードで自分の姿を見ることが、私の目標になりました。本格的に渡米したのは、それから約一年後です。

This article is a sponsored article by
''.