度胸とチャレンジ精神で、押し寄せてくるチャンスをつかんだ

――憧れのニューヨークに留学して、まずは何から始めたのでしょうか。

清水:まったく喋れなかった英語を少しでも身に付けることと、ニューヨークという土地に慣れることだけで精一杯でした。なのに、渡米して1か月経つか経たないかのころ、有名アパレルブランドのダンスモデルのオーディションを受けることになったんです。

周囲に「ダンス絡みで面白そうなことがあったら教えてね」とは言っていたものの、本当に突然の誘いでした。でも、とりあえず言われたとおりの場所に行って、ダンスをして……受かっちゃったんです。ニューヨーク・ファッションウィークでのパフォーマンスやランウェイのモデルに。

――いきなりグローバル企業の広告、しかもニューヨーク・ファッションウィークに出演できるなんて、アメリカンドリームすぎる……!

清水:自分でも信じられませんでした(笑)。でも、英語がほとんどわからなかったから、リハーサルも本番もとにかく不安だらけ。ディレクターが何を言っているのかを推測して、ついていくだけで必死です。出番を減らされそうになったときは、Google翻訳を使って「もっと出たい」と半泣きで訴えて、なんとかソロをもらいました。初めてのことばかりで心身ともに苦しかったし、実際毎日のように泣いていたけれど……無事にショーを終えたときは本当にうれしかったです。

でも、それからもなかなかダンスやモデルで食べていけるようにはなりませんでした。

――いまの活躍につながる、きっかけとなった出来事はありましたか?

清水:渡米から一年半ほど経って訪れたコロナ禍は、ひとつのターニングポイントだった気がします。母国に帰る人がたくさんいるなかで、私はニューヨークにとどまってダンスのレッスンを続けました。「自由に出歩けないんなら、この機会にいましかできないことをやろう」と思って。

それが、仲の良い友達がやっていたフレキシンというジャンルのダンスでした。ブルックリンのストリートから生まれたダンスで、関節を外すような動きやなめらかな手足のムーブが特徴。コロナ禍中はずっとフレキシンのことばかり考えていたから、振り返ってみると、パンデミックの苦しさよりもダンスを極めていく楽しさが勝つ日々を過ごせました。

新しいジャンルに挑戦したからこそ踊るモチベーションを保てたし、アジア人のフレキシンダンサーはめずらしいので、仕事のオファーにもつながっていったと思います。

――苦しい状況でも立ち止まらず、努力を続けたのがすごいですね。ダンスの本場でも、清水さんが活躍できている理由がうかがえます。

清水:ありがたいことですよね。でも私は、下手でもいいから思いきってやる度胸を認めてもらえたんじゃないかなと思っています。ニューヨークではスキルよりも、やるかやらないか。パッションがあるかどうかを見られている気がするんです。

――その度胸は、どこから来るのでしょうか?

清水:「やらなかった後悔」をしたくないって、ずっと思ってるんです。

母がニューヨークへ私を送り出すときに、「人生に無駄はないから何でも経験、すべて勉強」と言ってくれたのも支えになっています。すごく落ち込むことがあっても、最後には「まぁ全部経験だな!」と思えるようになりました。

――それだけアグレッシブでも、やっぱり落ち込むことはあるんですね……?

清水:いっぱいありますよ(笑)。オーディションなんて受かるよりも落ちることのほうが多いし、2年目くらいのときはすごいホームシックになっちゃって、一時帰国からニューヨークに戻る飛行機でぼろぼろ泣きました。「また外国で闘わなきゃいけないのか」ってプレッシャーもあった気がします。

そのときも母から「自分をもっと認めていいんだよ。すでに頑張ってるんだから、もう頑張らなくてもいいんだよ」と言われて、気が楽になった。だからいまは、自分がアメリカで結果を出して親を安心させてあげることも、モチベーションのひとつになっています。

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