「社会運動」と言うと、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。迷惑? 怖い? 過激?その人自身も「そんなイメージを持たれるのは無理がないと思います」と語った。続けて、「でも、身近な生活の中にも社会運動はあるんです」と説く。立命館大学で社会運動を専門に研究する、社会学者・富永京子さんだ。

著書、連載、テレビやネット番組への出演など幅広く発信を行なう富永さんだが、2022年1月には妊娠・出産を秘匿していたことを公表。母というレッテルを貼られてしまう恐怖や違和感を語り、出産とキャリアの間に生まれる女性の葛藤を提起した。

あれから2年――。社会運動の研究者としてますます精力的に活動する富永さんに、当時の心境も振り返りながら、今考える仕事への向き合い方について話を伺った。


社会問題の芽は、個人の小さな不満の中にある

画像1: 社会問題の芽は、個人の小さな不満の中にある
——富永さんは社会学のなかでも「社会運動」の研究をなさっています。何かきっかけがあったのでしょうか?

富永:社会運動って、実際に参加していた方が研究することが多いんですが、私は逆。社会運動にいいイメージを持っていなかったんです。でも大学生の頃、あることをきっかけに興味を持つようになりました。それが、2008年に北海道で行われたG8サミット(現G7サミット)に対する抗議行動でした。

日本の、しかも北海道までわざわざ1万人も抗議のために集まってくる。しかもその時だけじゃなくて、サミットが開催されるたびに世界中から人が集まるんですよ。当時、札幌の大学に通っていた私は、すごく身近な場所でそんなことが起きていると知って、「いや、この人たちが集まったところでサミットがなくなるわけじゃないし、国際情勢だってそんなに大きく変わらないじゃん」くらいに冷たい感情を持っていたんですよね。でも同時に「不思議だな」というのも感じていた。

それで大学4年生の夏に、研究テーマとして社会運動を選びました。その後、大学院に行っても社会運動の研究をずっと続けていた、という感じです。「そんなふわっとした気持ちで研究するんじゃねえ」って言われてしまいそうですが(笑)

——元々は真逆のスタンスだったのは意外です!富永さん自身は、社会運動をどんなふうに定義されているんでしょうか?

富永:日本で「社会運動」というと、大きく政治を変えることをイメージされる方が多いと思います。ですが、海外で研究報告をすると「日本人は、社会運動をせまく捉えているよね」とよく言われる。

例えば今でいうと、ジェンダー平等がよく主張されていますよね。小学校の中には、名字に「さん」付けをして、「ちゃん」や「くん」を使わない学校もあります。そうした生活の中にある小さな営みも、じつは一つの社会運動と考えることができるというのが、私の見方です。

もうだいぶ前になりますが、「保育園落ちた日本死ね!!!」という匿名のブログが話題になりました。これをきっかけに国会で待機児童問題への対策が議題にあがったのも、そういう意味では社会運動だと言えます。政策や制度への大きな抗議やデモ以外でも、個人の小さな「不満」の発露や発信も社会運動になり得るし、より大きなアクションや世論の呼び水になることがある。

ただ一方で、そうやって考えていくと身近なことのほとんどが社会運動になってしまって疲れちゃいますよね。日本には、「音楽や芸術に政治を持ち込まない」という意識を持つ人も多くいたりする。それはどうなんだとも思うけど、気持ちもわからなくはない。「なんでも社会運動と捉えていいのか」というのは非常に難しい問題です。

——「社会運動」は、私たちが考えているよりももっと幅広い行動を指す言葉なのですね。大学では授業を通じて、学生にどんなことを教えているのでしょうか。

富永:授業では「国際社会入門」という講義をメインに教えています。国際比較を通じて「今いる日本社会がすべてではない」ということを、学生たちに知ってもらうことが重要なのかなと考えています。

例えば、世界価値観調査という国際比較調査を見ると、日本のデモ参加率は約5%ですが、ドイツだと約30%ほど、比較的日本の近くにある韓国でも約10%と言われています。つまり、日本にいると社会運動は全然身近ではないけれど、世界にはもっと意見が言いやすくて批判もできる社会があるんだってわかる。もし今後日本で生きづらくなったとしても、別の社会で生きやすくなる可能性が見えてきますよね。

また、ISSP(International Social Survey Programme)という調査に「政府の役割」という項目があります。これを見ると、日本人の傾向として、いろいろなことを「個人のせい」だと考える人が多い。奨学金を借りて、高い学費を払って大学に行ったのに、安い初任給で働かなきゃいけない。でもそれって全部、自分のせいなのか?ちゃんと頑張って、それでも難しい状況もあるんじゃないでしょうか。「自分のせいにしなくていいんだよ。社会や政治に働きかける努力をしてもいいんだよ」ということは、社会運動の研究者として伝えたいなと思っています。

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——社会運動とは、自分からはすごく距離が遠いものだと思っていましたが、なんだかすごく“生き方”に関わってくるようなことなんですね。

富永:そうですね。日本では、自分の個人的な欲求や不満を言うと「わがままだ」と片付けられてしまうことが多いけど、本当は社会問題につながる種がたくさんあると思うんです。

そういう思いもあって、2019年に『みんなのわがまま入門』という本を出版しました。“わがままを言う”大切さもそうですが、逆に人のわがままに対して聞く耳を持つ姿勢になってもらいたいです。

——ただ、今までやったことない人が突然わがままを言おうと思っても、難しい部分もあるような気がします。何か、意識的にできるようなことはあるでしょうか?

富永:うーん……一つ私が最近考えたこととしては、「個人的な意見ですが……」という言葉を使わないことでしょうか。

私自身も、産休・育休中に研究費を執行しづらいことに関して、教授会で発言をするときに「これ私の個人的な意見なんですけど」と言ってしまったことがあります。でも育休・産休を取るのは私だけじゃないですよね。なんなら育休・産休だけでなく、休暇を取る教授全員にあてはまる意見でした。それをあえて、この言葉を使うことによって、問題を「私のわがまま」だと矮小化してしまった。

きっと、みなさんの職場にも同じようなことがあると思いますよ。「時短勤務にしたい」「副業したい」……いま職場も多様化してるし、隣のデスクの人が何考えているか、職場に求めるものもわからない。だからこれって自分の「わがまま」なんじゃないかなあって思っちゃうんだけど、そういう気持ちを個人の中に収めないというのが、一番簡単なわがままかなと。そして逆に、人から問題提起があれば「それってみんなに共通することだよね」という意識を持つこと。もちろん、その人特有の事情や問題を抱えている場合もあると思いますが、個人化してしまいがちな人に「私もそう考えてたよ」と声をかけることも大事なんじゃないかと思います。

——単なる愚痴だと捉えられてしまわないように、気をつけないといけませんね。

富永:いや、愚痴でもいいんですよ。「保育園落ちた日本死ね!!!」だって、ある意味愚痴じゃないですか。でもそこに多くの人が共感したから社会が動いたわけですよね。共感できる人が集まりさえすれば、それが拾い上げられて改善に向かうことは、全然あり得ると思います。

だけど、まず言葉にしないと共感を得ることだってできません。どんなに小さくて個人的な問題だと思えるものでも、同じ悩みを抱えている人がいるかもしれない。そのためには積極的に自分が抱えている問題を伝えていく必要があると、私は思います。


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