新卒で入った会社を、10ヶ月で辞めた。

勤務時間は朝9時から翌朝5時まで。休日すらなく、もはや人間の生活ではない。半年も経たないうちに、心も身体も弱りきってしまったのだ。

無職になった僕は、オフィス街から逃げるようにして、高円寺駅から徒歩15分のアパートに引っ越した。高円寺という寛大な街なら、激務で心身とも傷ついた僕でも、優しく受け入れてくれると思った。

街の懐に甘えるように、引っ越してからはずっと寝ていた。起きていたのは食事とトイレと、趣味のJリーグをテレビで見る時くらいだったろうか。貯金が尽きるまでは、自堕落の底の底に寝そべろうと思った。北風でみしみし揺れる築40年のアパートに、じっと篭り続けた。

そうやって3ヶ月くらい寝ていたら、段々と体調はよくなってきた。リハビリのために近所の散歩を始めると、外はすっかり春だった。

ノートPCをリュックにつめて家を出て、有名な「純情商店街」じゃない方の、ちょっと寂れた商店街の錆びたアーチ看板をくぐる。喫茶店に入って、一番安いアイスコーヒーを頼んで、PCでメモ帳を立ち上げ、作業するふりをしながら周りの客の会話を聞いて、一日を過ごした。その喫茶店は不動産会社の営業マン御用達らしく、巧みなトークが四方から聞こえてきて、飽きなかった。最初は面白おかしく聞き耳を立てていた僕であるが、徐々に異変に気づいた。

紺色のスーツを着た営業マンの肩のあたりが、どこか光って見えたのだ。後光だった。営業マンたちに、一様に後光が差していた。不思議な光は、日に日に輝きを増していった。

彼らは自信に満ちた表情で、お客さんと話す。ツヤツヤにラミネート加工された資料を広げて、身振り手振りを交えてプレゼンする。仕事をしているなあ、と僕は思った。営業マンとお客さんは、ビジネスという関係性で結ばれている。店内のテーブルの数だけ取引があり、経済がある。対する僕のPCのメモ帳は、いつまでも真っ白だった。

視界の誰もが働いている。いつもアイスコーヒーを出してくれる店員も、キッチンでコーヒーを淹れているバリスタも、もちろん働いている。そのコーヒーの豆を輸入した人もいるだろうし、純情じゃない方の商店街のアーチ看板を作った人もいる。そんな当たり前の事実が、当時の僕には空恐ろしかった。

世界は誰かの仕事で構成されていて、需要と供給の網の目のマーケットで、必要と必要で結ばれている。そこに僕の居場所がない。社会のどこにも接続されていないのだと思った。だから周りが輝いて見えたし、後ろめたかった。

懐の深い高円寺でさえ、どこを歩いても自分だけが浮いているように感じた。満開に咲いた桜が、恨めしかった。

                     ◇

いつまでも営業マンの後光が眩しすぎるから、せめてもの対抗手段として、PCで実際に何かの作業をしようと思った。だが無職にはExcelで計算すべき数字も、PowerPointで発表すべき資料もない。そこで代わりに、「Naverまとめ」に手を出すことにした。

Naverまとめとは当時流行っていた、ユーザーが簡単に情報をひとつのページにまとめ、ブログのように公開できるWebサービスだ。PVに応じて広告収益も入る。最初は高円寺の街情報とか、Jリーグの選手まとめを作ってみたが、PVは最大で「30」だった。

だが無職の僕には、時間だけはあった。日々新しいまとめを公開し、何度も何度もチューニングを重ねた。そしてある日、とあるまとめへのアクセスが急上昇していることに気づいた。「イケメンJリーガー情報まとめ」だった。

当時、「イケメンのサッカー選手」まとめはあれど、Jリーガーに的を絞ったコンテンツはなかった。一方で内田篤人選手が大きな人気を博すなど、サッカー選手へのアイドル的な関心が高まっていた時期でもあった。そこで僕は「Jリーグなら会いに行ける」というコンセプトのもと、J1からJ3まで、全てのクラブのイケメンをまとめはじめたのだ。

Jリーグのほぼ全試合を鑑賞し、しらみつぶしにイケメンを探した。起きている時間をすべて費やした。もはや試合の勝敗よりも、選手のルックスの方が気になった。知られざるイケメンを掘り出し、ひとりひとりに詳細な紹介文を添えた。併せてプレイスタイルや最新の試合情報をまとめることで、PVは面白いように増えていった。ふとtwitterでエゴサーチをしてみると、このまとめの更新を心待ちにしているとか、このまとめを見て初めてJリーグの観戦にいったとか、そんなツイートがたくさん見つかった。その瞬間、切り離されていた社会と僕が、細い糸でぴっと結び直された気がした。

僕よりJリーグに詳しい人は、山ほどいるだろう。僕より文章を書くのが上手い人も、情報をまとめるのが上手い人も、当然ながら星の数ほどいるだろう。だがあの時期において、僕よりイケメンのJリーガーに詳しかった人は、世界に一人としていなかったはずだ。一日約8時間、みんなが働いている時間を、イケメンJリーガーまとめに集中投下していたのだから。普通の人はそんなことやりたいとも思わないし、やる意味もない。無職だけがなせる技だった。僕のまとめは、いつしかGoogle検索でも「Jリーガーイケメン」で最上位に表示されるページへ成長していった。

そうやって長い春が終わろうとしたころ、Naverまとめから一通のメールが届いた。いつもの喫茶店で開いたそのメールは、はじめての広告収益が振り込まれた、というお知らせだった。金額は、3万4千円。あれだけやって、3万4千円だ。時間単価にしたら、労基法の最低賃金を遥かに下回ることだろう。

だがその3万4千円は、まるではじめての給料のように思えた。喫茶店で広げたPCの画面に、小さな経済が生まれた気がした。店内を見渡すと、営業マンたちに差していた後光は、いつの間にか消えていた。

ほどなくして僕は就職活動を始め、その時に出会った会社で働くようになって、もう10年目になる。その後Naverまとめを触ることもなく、2020年にサービス自体が終了してしまったようだ。

ただ、今でも確信を持って思うことがある。あの3万4千円を稼ぐために過ごした春が、僕にとっての「働く」の原体験だった。


画像: イケメンJリーガーを毎日8時間まとめつづけた春の話 岡田 悠<第一回>
岡田 悠

会社員としてIT企業でプロダクトマネージャーを務める傍ら、作家・ライターとしても活動。『0メートルの旅』(ダイヤモンド社)、『10年間飲みかけの午後の紅茶に別れを告げたい』(河出書房新社)、『1歳の君とバナナへ』(小学館)が発売中。オモコロで記事を、デイリーポータルZでPodcast「旅のラジオ」を更新中。

★岡田さんのエッセイは全3回です。来月もどうぞお楽しみに…!

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