「働く」をテーマとしたこの連載。これまで、家事や育児をしながら「働く」ことや、海外で「働く」ことを取り上げながら、主に「働く」ことの外側に学びがあったという、テーマに対していささか不真面目なエッセイを書いてきた。そして最終回である今回もまた、「長年続けてきた研究職を辞める」という、テーマにギリギリのエッセイを書いてしまう。でも、この連載を読んで、「自分らしく働き生きる」ってこういう形もあるのかぁ、と感じてもらえたら幸いだ。

もともと私が研究職を目指したのは、「吃音」がきっかけだった。頭の中で「考える」ことや論文や提案書を「書く」ことがダイレクトに成果に繋がる研究職なら、吃音という発話障害を持つ自分にもできると感じたからだ。これを消極的な理由と思う人もいるかもしれないが、幼少期から吃音に苦しみ、自分に世の中を生き抜く力はないと怯えてきた私にとって、「自分にもできる」という感覚は極めてポジティブなものだった。

実際、研究職に就いてみると、「考える」ことや「書く」ことが研究費の獲得や海外での採用といった評価やキャリアアップに繋がることが実感できた。この事実に私は、自分にもできる天職にたどりついたと、高揚感を抱いていた。だが、キャリアが進むにつれて状況は変わっていった。

これは他の職種にも当てはまることかもしれないが、研究職では、キャリアが進むとプレゼンはもちろん、会議や講義といった「話す」業務が増えてくる。研究者同士で議論しながらプロジェクトを進めたり、学生に向けて講義をしたり、その経験を何らかの形で誰かに「話す」ことが求められるのだ。

この変化を前向きに捉える人は多いかもしれないが、吃音がある私にとっては、純粋に負担だった。この負担を軽減するために、キャリア当初に就いていたような、「考える」ことや「書く」ことに集中できるポジションを探そうともしたが、そのような公募はキャリアの経過とともになくなっていってしまう。気がついたら、「話す」ことから逃げられない状況に追い込まれてしまっていた。

この状況を乗り越えるために私は、これまで必死に隠してきた吃音のカミングアウトを試みた。職場に周知のメールを送ったり、プレゼン時に吃音を説明するスライドを入れたりしてみたのだ。でも残念ながら、勇気を振り絞ったこの一世一代のカミングアウトは、私の抱える苦しさを振り払うのに十分ではなかった。

一般に、障害を持つ人が、障害がない人と平等にキャリアを積むためには、その障害がキャリアの障壁とならないために周囲が何らかの配慮をする必要がある。吃音症も、このような配慮を必要とする世界保健機関(WHO)が国際疾病分類(ICD)に指定する障害のひとつなのだが、私はこの配慮を十分に得ることができなかった。例えば、カミングアウトの結果、辛いなら会議に出なくていいと言われても、欠席したことがそのままキャリアにマイナスに影響してしまうのなら、配慮としては不十分だ。求めていたのは、もっと踏み込んだ配慮だった。

そんな要求は単なるワガママだ、という意見もあるかもしれない。でも、考えてみてほしい。障害とは、当事者の持つ特性が社会に想定されていないことで、他の人と平等に生きることを阻まれている状態のことだ。その特性を「障害」としているのは、当事者ではなく、社会なのだ。だからこそ、その特性が「障害」とならないための配慮が、社会には求められる。この配慮は、「合理的配慮」と呼ばれ、いまではその必要性が国連の条文にも盛り込まれている。私が経験した苦しさは、吃音に対する「合理的配慮」が、少なくとも私の周辺の研究業界には足りていなかったことを示している。

そして不運にも、苦しむ私に「コロナ禍」が追い討ちをかけた。自宅勤務が増えたことで、吃音者にとって最も辛い「オンライン会議」や「電話」の業務が激増してしまったのだ。結果として、私は自律神経を壊し、パニック症を発症してしまった。

そんなボロボロになった私を救ってくれたのは、「自分を大事にしてくれない場所で、もうこれ以上自分を消耗させなくていいんじゃない?」という妻の一言だった。この一言に後押しされて私は、一度は天職とまで感じた研究職から離れる決断をした。

その後は、何か一つの職を持つのではなく、毎朝お弁当を作り、子どもたちを学校に送り届けてから、妻の事業を手伝ったり、吃音当事者やその保護者を支援する活動をしたり、自分のペースで依頼のあった研究活動をしたり、今まさにこのエッセイを書いているように「書く」仕事をしている。

以上が、私が研究職を辞めた(正確には、研究所勤めを辞めてフリーになった)いきさつだ。これを「キャリアの断絶」や「挫折」などと後ろ向きに捉えることもできるだろう。でも私にとってこれは、「研究職」から「自分の心地いい場所で、自分や家族を大切にしながら、やりたいことを何でもする屋さん」への「転職」だ。

よく転職は「人生の分岐点」だと言われるが、これまでの経験から私の思う人生は、分かれ道なんてない「一本道」だ。その一本道を「まっすぐ」進んできたからこそ、私は「研究職」を見つけることができたし、そこから離れて「(前略)やりたいことを何でもする屋さん」に転職することもできた。

人生が一本道ということは、どんな仕事も、家事も、育児も、休養も、人生で起こるすべての出来事が、ひと続きということだ。ひと続きであるなら、この先どんな未来に向かおうと、前後の辻つまなんて気にする必要がない。人生はちゃんと繋がっているのだから、周りからどう見られようと、泣いても、笑っても、自分自身が「まっすぐ生きている」と感じられるのなら、それでいいのだ。


画像: これからも、「まっすぐ」生きていく。 中川まろみ<最終回>

中川 まろみ:
まっすぐ生きたい人。2児の父親。吃音障害者。日本で理学博士を取得後、日本の研究所に4年、米国およびオーストリアの研究所に11年勤める。2022年に帰国し、キャリアを変更。現在は、子育てに軸を置きながら、妻の事業に参加し、また、フリーの立場から依頼のあった研究活動に携わる。同時に、国内外における仕事や育児関係、また障害者としての経験などを元に、幅広い話題について発信するライターとして活動中。

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