注文を受けてから豆を挽き、バリスタの手によって1杯ずつていねいにドリップ。香り豊かなコーヒーが人気を集める「ブルーボトルコーヒー(以下、ブルーボトル)」が日本に上陸したのは2015年のことだ。その立役者となったのが、ブルーボトルジャパン代表、アジア代表、そしてブランド全体のブランド統括責任者として活躍した井川 沙紀さん。現在は同社から独立し、ストラテジックブランドアドバイザーとして、ブルーボトルを外から支えながら、自身が立ち上げたインフロレッセンス株式会社の代表取締役を務めている。

日本、アメリカ、そしてアジアと飛び回り働いていた井川さん。日本に一時帰国していた2020年、コロナ禍へ突入したことをきっかけに現在は日本を拠点に働いている。「日本人らしく働かなくてもいいと思うんです」と話す井川さんに、「自分らしく働くこと」について聞いた。


「やってみてダメだったらやめればいいよ」の一言が、挑戦を決意させてくれた

画像1: 「やってみてダメだったらやめればいいよ」の一言が、挑戦を決意させてくれた
―ブルーボトルに入社するまでに、4回の転職、計5社でキャリアを積まれている井川さん。その経緯を改めて教えてください。

井川:これを言うと驚かれるのですが、学生時代に最大で7つほどのアルバイトを掛け持ちしていて……。その全てが塾講師や秘書代行、旅館の仲居といった「人と接する仕事」だったんです。どの仕事もとても楽しくて、就職活動でも「人に関わる仕事」を軸に据えていました。

新卒で入社したのは、当時勢いがあった人材サービス業界の企業。入社後、すぐに子会社へ出向になり、いきなり新規サービスの立ち上げを担当することになって。「嘘でしょ!?私、新人だよ?」と。まさに「1人でなんでもやる」という状態だったので、とにかく必死でしたし、体力的にも厳しかったです。もう辞めたいと何度も思いましたが、「石の上にも三年」と自分に言い聞かせていました。ただ、新規事業の立ち上げという仕事自体はすごく面白いなと感じていました。それなら、もっと新規事業について学んでみようと、4年目にインキュベーション会社に転職しました。
※インキュベーションとは、一般的に事業の創出や創業を支援するサービス・活動などのことを指す。

2社目では入社したタイミングで広報部門が新設され、そこに未経験の私一人だけが配属となりました。社内の人たちは皆優秀で、「自分だけ何もできない」という劣等感もある中で、新設部署に広報未経験の自分だけ。「結果を出すしかない」と心を決めました。実際に必死になってやってみると、広報・PRの仕事は思いのほか楽しくて「あ、私これ、得意だ!」と(笑)。

この2社での経験から、自分が好きな「新規事業の立ち上げ」と自分の得意な「広報・PR」を掛け合わせた仕事をしたいと強く思うようになったんです。

なので3社目は、海外ブランドの日本ローンチ、4社目は反対に日本企業の海外展開に参加して経験を積みました。そして4社目での仕事がひと段落したタイミングで、友人から「ブルーボトルが日本展開を考えている」という誘いを受けて、「ぜひやってみたい!」と返事をしました。はじめは広報・PRのポジション、その後2015年に代表取締役に就任しました。

―さまざまな経歴を経て、やりたい仕事を導き出したのですね。ブルーボトルジャパンの代表というポジションも、井川さんの「やりたいこと」だったのでしょうか?

井川:全然!(笑)。むしろブルーボトルの創業者であるジェームス・フリーマン氏(以下ジェームス)から「ブルーボトルジャパンを任せたいんだ」と打診された時は、「いやいや、無理です」って断ったんです。

もともと私は人の前に立つタイプではなく、表に立つ人を後ろから支えるサポータータイプの人間。頼ってもらったからにはその期待に応えたいという想いもありましたが、自分はあくまで広報畑の人間だからと、何度も断りました。

でもジェームスから、「まだ何もやっていないよね。やってみてダメだったらやめればいいよ」と言われたんです。ハッとさせられました。確かに何もやっていないのに、なんで「無理」と決めつけていたんだろうと。そんな後押しもあって、これをチャンスだと前向きに捉え、気持ちが揺らぐ前にブルーボトルジャパン代表というポジションを引き受けることにしました。

今だから言えることかもしれませんが、「自分にできない仕事は自分には回ってこない」と思っているんです。時に、「自分自身では想像できていない未来の自分の姿」が、周りの人には見えていたりすることがあると思うんです。任せてくれた人を信じてトライしてみるというか、うまく乗っかってみる。もしかしたら大きく可能性が広がるチャンスかもしれないなって。

―素敵な考え方ですね。ジェームスさんにそこまで言わせた井川さんという存在は、ジェームスさんの中でとても大きいものだったのではないでしょうか。

井川:誰の視点で仕事をするかということだと思うんです。私は、代表になる前から常にジェームスと同じ目線を持とうと意識していました。すべての判断において、「こんなとき彼ならどう考えるだろう」と。

日本2号店の青山カフェオープンのときの話。オープン後にジェームスが現地視察に来て、「ここは修正したほうがいいね」というポイントを私に伝えてくれました。が、その時すでに私が全て修正指示を済ませていたんです。この時は「ジェームスと同じ視点を持てた」と実感して本当に嬉しかったです。

そういったことを繰り返していく中で、「サキは僕と同じ視点でやってくれている」というジェームスとの信頼関係が出来上がっていったのかなと思います。

画像2: 「やってみてダメだったらやめればいいよ」の一言が、挑戦を決意させてくれた
―ブルーボトルジャパン取締役に就任した当時、井川さんは35歳。これだけ多くの部下を持つという経験もその時が初めてだったかと思いますが……。

井川:そうですね、年上の部下も多くいたので、最初は不安でした。でも実際にやってみたら全然そんなことはなくて。もしかすると、自分にはできないことを把握していたことが大きかったかもしれません。

ブルーボトルは、焙煎士やバリスタといったスペシャリストが多い職場です。例えば、私はコーヒーの焙煎もできないし、ハンドドリップで上手に淹れることもできない。なので自分にできないことは、「これはあなたに任せたい」と、メンバーを信頼して任せるようにしていました。

仕事を任せるということは、相手への信頼を表すことだと考えています。その上で、言葉でも相手にきちんと期待を伝える。信頼関係って、そんなコミュニケーションを通して出来上がっていくんじゃないかと思うんです。

―相手を信頼して任せることが井川さんの経営スタイルの原点なのですね。一方で、経営トップとして悩んだ時期はありましたか?

井川:コロナ禍では本当に難しい決断の連続でした。もともとオンラインツールを導入していたので、コミュニケーションにおいては大きな問題はなかったんです。

ただ、当時の私はブルーボトルアジア代表という肩書き。先が見えず、誰にも正解が分からない中で、各国の売り上げに直結する決断を求められました。お店を開けるのか、閉めるのか。開けるならどんな対策を取るのかーー。実際、日本やアジア各地の店舗業務に大きな影響が出たんです。

この国はロックダウン、この国は非常事態宣言……。国によってコロナに対するレギュレーションが全く違い、それも日々目まぐるしく変わっていく。いつまで続くかわからない非常事態に対応を続ける毎日でしたが、やっぱりここでも大事なのはコミュニケーションなんですよね。

各国の代表メンバーと密に連携し合って方針を固めていく。時には画面越しにお互い涙したこともありました。経営者として本当に鍛えられたなと感じます。



画像: <前編>見つけたのは「日本人らしさ」ではなく、「自分らしさ」。ブルーボトルコーヒージャパン 元代表 井川 沙紀さんにとっての「自分らしく働く」とは

井川沙紀
これまで新規事業開発や、ブランドビジネスのマーケット展開に従事し、ブランディング・広報・PR領域を担当。直近では米ブルーボトルコーヒーの日本上陸を担当後、日本代表、アジア代表を経て、米・本社の経営メンバー(Chief Brand Officer) としてブランド全体の統括責任者として勤務。現在は国内外のブランディング・コミュニケーション戦略のコンサルタントや、大学の特任教授(客員)や社外取締役として活動。

取材・執筆:宮﨑 駿
編集:山口 真央(ヒャクマンボルト)
写真:KEI KATO(ヒャクマンボルト)

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