子どもやその保護者、地域の人々にあたたかい食事を提供する“こども食堂”。「こどもが一人でも入りやすい食堂」という意味を込めて名付けられたこの活動は、ボランティアによって全国に広がり、現在10,000箇所以上で運営されています。
今回お話を伺うのは、そんなこども食堂の“生みの親”である近藤博子(こんどうひろこ)さんです。「こども食堂」という言葉すらなかった2012年に、東京都大田区で活動をスタート。歯科衛生士の仕事を続けながら、一般社団法人ともしびatだんだんの代表理事としてボランティア活動を行ってきました。
13年もの間、近藤さんが子どもたちをはじめ地域の人と向き合い続けてきた理由、そして思い描く未来についてお話を伺いました。
バナナ1本で食いつなぐ子の存在。それに気づかない地域に愕然とした

近藤:この場所はもともと「気まぐれ八百屋だんだん」という八百屋をするために借りました。常勤の歯科衛生士として働いていた会社を辞めた後、「“歯と健康と食”をつなげられるような仕事がしたい」と模索していたんです。
そんな頃に、「無農薬野菜をお客さんの自宅に届ける配達の仕事をしないか」と声をかけられて。自分のしたいこととつながる部分がありそうだなと感じて始めることにしました。いい場所を探す中で、見つけたのがここ。居酒屋の居抜き物件で、キッチンも広くて使い勝手がよさそうでね。そのうち配達だけではなくて、無農薬野菜の店頭販売もするようになりました。
次に始まったのが寺子屋。私には3人の子どもがいますが、高校生になった娘が勉強につまずいた時期があり、悩んでいたんです。部活が忙しいし、お金もかかるから、塾に行く選択肢をとるのが難しい状況でね。それを知った塾講師の経験がある友人が「ここで夏休みに予習と復習をやってみようか」と言ってくれて、ここで教えてもらうことになりました。
じゃあ、うちの子だけじゃもったいないということで、野菜を買いに来たお母さんたちに声を掛けてみたら、子どもたちが集まったんです。
そうすると、子どもたちが勉強している様子をみて、ボランティアの大人から「私たちも何か学びたい」という声があがってきて。場所を貸して、大人の“学び直し”の企画をやるようになって、さらに賑わいを増していったんですよ。
近藤:当時親しくしていた小学校の副校長先生から聞いた話に衝撃を受けたのがきっかけです。給食以外の食事が摂れずに、バナナ1本で1日を食いつないでいる子がいると。母子家庭で、お母さんが病気を抱えていて食事を作れない時もあり、家での食事ができないという状況でした。
おなかを空かせた子どもの存在も悲しかったですが、「どうして誰も気づかなかったんだろう」という地域の現状への驚きが大きかったです。お隣さんの息子さんのそんな状況に気づくとか、大変そうなら助けるとか、そういうことが自然と起こらない社会ってなんなんだろうと。お隣さん同士で気遣ってあげれば、特別なことをしなくても支え合えるはずだと感じたんです。私が育った地域は小さな村でしたから、大変な思いをしている人がいればお手伝いをするのが当たり前だった。

近藤:それぞれに何か困りごとを抱えていても、声を掛けあって、支え合って生きていましたよ。
食べるものに困っている人がいたら畑仕事の手伝いをしてもらって農作物を渡すとか、お互いができることを手渡し合うのが日常でした。しなきゃいけないと言われたことは一度もないんですけどね。とても自然にやりとりが生まれていました。
近藤:バナナ1本で過ごしていたその子にとって、助けてもらえる“つながり”は副校長先生だけだったみたいです。先生がおにぎりを作っていって、保健室で食べさせていた。
それを聞いて「忙しい中でそういうことを続けるのは先生も大変だろうし、だんだんのお店であたたかいごはんと具だくさんの味噌汁を食べられる機会を作るのはどうか」と提案してみたんです。元居酒屋の厨房がありましたから、それならできそうだと。先生も賛同してくれて、有志の人たちが集まってどうやって始めるか話し合うようになりました。
けれどそこから、話がなかなか進まなかった。当時は全国にも事例が見つかりませんでしたし、「こども食堂」なんて言葉も存在しません。どんな形がいいのか迷っていました。
お金はどうするのか、何を作るのか、なかなか結論が出せずに時間が経ってしまい……。そうしているうちにその子は児童養護施設に入ることになりました。その子は、決してその選択を望んでいたわけじゃないはずです。
ただただ、悔しかったです。おうちでの暮らしを諦めて施設に入所せざるを得ないほどの問題を、食事を提供するだけで解決できたとは思いません。でも、行動に移せていたら何かは変わったかもしれない。その出来事で強く背中を押されて「今、私がやろう」と決心し、カレーを作ってふるまうところからこども食堂がスタートしました。