通訳者という職業は、孤独と忍耐に満ちている。パソコンの前に座り、電子辞書、ページが日焼けして黄色くなった辞書、ノート、複数のペンが並ぶ風景に囲まれる。印刷した山ほどの資料のページを数え始めたら途中でわからなくなり、最初から数え直すことも珍しくはない。
通訳現場では、人と対話する時間は限られている。現場に行く前の業務の方が多く、その大半は資料の読み込みと専門用語の確認に費やされる。通訳者は、言葉だけではなく文化や歴史の背景も理解しなければならない。言葉の意味を正確に伝えるだけではなく、その背後にある意図やニュアンスを理解し、それを別の言語に変換するという高度なスキルが求められる。
通訳の仕事はそれだけではない。実は、母国語に悩む時間も多いのだ。母国語、すなわち僕の場合はイタリア語の事前資料を読めば読むほど、その複雑さに気づく。文章は問題なく読める一方で、そこに含まれている意味や言葉の理解が難しいことが多い。通訳者としてよくあることだが、現場より下準備の方がストレスが溜まりやすい。
イタリア人の僕にとって、日本語よりも母国語のイタリア語の方が楽だが、通訳現場では「楽」という待合室はない。むしろ、日本語の方が精神的にやりやすさがある。なぜなら、母国語ではないため集中力が高まり、スムーズに言葉が出てくるから。日本の社会マナーやルールを守る必要もある。外国人であることの違和感が出ないように、通訳中は頭をフル回転させている。
相手がイタリア人の場合、社会マナーを考えつつも、同郷であることもあり気を遣わず友達のような関係になりやすい。その心地よさが心を豊かにする。イタリア人の役に立つことによって、ある意味イタリアの経済を支えている気分になることもある。
通訳の仕事は、下準備が9割、現場での通訳が1割だ。現場に早く入れば無駄な不安がなくなり、周りの環境に合わせて動きやすくなる。これまで多くの現場に入ってきた中で想像通りに進行したことは少ないが、すべての案件を無事に終わらせてきた。
専門用語の翻訳は難しいが、一度覚えて現場に入ればあっという間に時間が過ぎ去る。難しいのは「異文化」と「話し手」のサポートだ。
日本語をそのまま訳せばイタリア語にならず、勘違いされることもある。重要なのは、言葉をそのまま訳すのではなく、話し手のセンテンスをベースにして、全く同じ意味をイタリア語で言うとどうなるかを考えながら訳すことだ。すると、長い日本語は短いイタリア語になるし、イタリアでは大笑いのジョークが日本では「シーン……」となる、なんてことも。通訳者は文化の壁を薄くして、会話の達成をサポートする重要な役割を担っている。
この作業は話し手が中心になるため、自分のことを考える余裕がない。1人で会話を聞きながらメモを取り、訳しながら動いて、異文化マナーや食事の説明も行う。まるで、生まれたばかりの赤ちゃんの面倒を見ている母親だ。通訳の存在がなくなったら、ジェスチャーすら通じないだろう。
僕にとって、通訳の仕事はまるで永遠に続く受験生のような気分だ。毎日が試験前夜のような緊張感とプレッシャーの中で過ごしている。しかし、その努力が報われる瞬間もある。現場での通訳が成功し、リピートの仕事が入るときだ。特別な褒め言葉がなくても、この瞬間に感じる達成感は何にも代えがたい。
ところが、褒め言葉は必要ないと思っていた僕にとって、忘れられない出来事があった。
ある現場での出来事。数日間の通訳が終わり帰る間際、イタリア人のお客様に2人だけの会話ができる場所へ呼び出された。告白のような緊張感の中、お客様は「マッシの通訳中に感動し尊敬したのは、何より母国語(イタリア語)の深さだ。初来日だったが、マッシのプロフェッショナルな対応と言葉遣いで不安を感じなかった」と言った。要するに、僕のイタリア語の表現と異文化への適応が、プロ以上だと認められたのだ。その言葉に、僕は胸が熱くなり、涙が溢れた。
外国語より、イタリア語の方が綺麗で美しいと言われたのは、プロの通訳者として初めての経験だった。「難しい日本語を使いこなしている」と褒められたことは何度もある。その言葉に嬉しさを感じていた一方で、どこか満足できていなかった自分もいたのだと、改めて気がついた。
通訳者としての仕事の本質は、単なる言葉だけの話ではない。通訳者は文化の架け橋となり、物事を正確に伝え、コミュニケーションを円滑にする役割があるのだ。
1番自信がある母国語は、理解できるのが当たり前だと思っていた。ところが、それは当たり前ではなかった。この日から、言葉を使った専門家としての意識は新たに変わり、新しいステップと人生の目標が生まれた。通訳者としてだけではなく、僕という人間が生涯を通して「言葉」の本質を伝えていきたい。
マッシ
通訳、エッセイスト。1983年イタリア北部ピエモンテ州、カザーレ・モンフェッラート生まれ。トリノ大学院文学部日本語学科修士課程。2007年に日本に移住し日伊逐次通訳者として活動する。通訳者としての本業の傍ら、書くことや言葉についての興味や理解を深めたいと思い、自然な形でライターとしても活動を開始。2019年8月はnoteアカウントも作成し、Twitterを含めて日本全国に話題に。初めての書籍『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』が2022年発売。