アメリカンフットボールには “セカンドエフォート” という用語がある。ボールを運ぶ選手が激しいタックルを受けた後も膝をつくことなく、1ヤードでも、1インチでも前に進む姿勢を見せることを指す。大きな背中、黒く焼けた肌。いかにもパワフルそうに見える彼だが、幼少期から続けた野球、就職活動、前職時代の同期との力量差……人生の各所で「挫折」を経験してきたという。
プルデンシャル生命のライフプランナー、加藤翔大さん。彼は今、生命保険の営業パーソンとして多くのお客さまから頼られ、フットボーラー時代と同じように、前へ、前へと進み続けている。
経営者のお客さまも多い彼は、自分の仕事を「ライフプランナーにしかできない仕事です」と言い切った。ライフプランナー、すなわち保険営業の仕事とは、ただ保険を売ることではなく、想いを紡いでいく仕事なのだと。「自分に合ったフィールド」を見つけ、愛情と情熱を傾けることで輝きを取り戻していった、加藤さんの人生を紐解いていく。
後編:父への想い、仕事に対する考え方、そして加藤さんのMy Rules
努力が実らなかった高校野球での「挫折経験」
炎天下の早稲田大学アメリカンフットボール場。「撮影してもらうならここがいいなと思って」と案内してくれたその場所は、加藤さんが一番熱中した4年間を過ごしたフィールドだ。
綺麗に整備されたグランドに足を踏み入れた加藤さんは、少しだけ遠い目をして、すぐ隣にある野球練習場を見つめた。
「僕は早稲田大学高等学院から早稲田大学へ進みました。高校の時は野球部。副主将を務めていました。すぐ隣にある野球場で3年間、そしてこのアメフト練習場で4年間。フェンス一つで区切られたこの場所で7年間を過ごしたんです」
実力校である早大学院の高校野球部、しかも副主将。そのまま早稲田大学に進むのなら、大学でも野球を続けたらいいのにと思うところだ。しかし、現実は厳しかった。
「身体能力でなんとかなっていた小学生の頃から、中学、高校へ進むとどんどん周りとの差に焦るようになりました。器用なタイプではないので、努力し続けなければと、特に高校3年間は誰よりもバットを振って練習していました。けれど最後の夏の大会で、自分が守るはずだったセンターには直前にサードからコンバートされた同期の姿がありました」
「努力はしたけど実らなかった。チームが勝つためには当然のことだと頭では分かっていたんです。ただ、これだけ努力しても結果的に選手として信頼されなかったという現実を突きつけられました。何より無力な自分が悔しくて、自分はこんなものなのか――。自信を失いかけていた時期でした」
僕の活躍する場はここだった。猛者たちの中に飛び込んだアメフトでの経験
大学では野球の道を選ばなかった加藤さん。なぜアメフトへの転身を決めたのだろうか。
「高校3年間の部活に疲れ、やさぐれていたのか、野球部を引退した後は遊び呆けて堕落していました。そんなとき、高校時代の野球部の先輩からアメフト部への勧誘を受けたんです。野球をやっていたから“球感(たまかん)”はあったし、ちょっとプレイしてみるとなんとなく気持ちがいいスポーツだなと思って」
とはいえ、アメフトはフルコンタクトの激しいスポーツ。野球とは身体づくりのやりかたが違うだろう。不安はなかったのだろうか。
「野球を辞めてから体力は落ちていたし、先輩はガタイのいい猛者たちばかりで、正直不安しかありませんでした。でも、もしもこのフィールドで、この猛者たちの中で活躍する日がきたとしたら……。それは奇跡だなと」
そんな加藤さんの選択を後押ししてくれたのは、父だったという。
「……僕、実は幼少期に大病をして、大きくなっても車いすだろうと言われていました。でも、奇跡的に治って、野球までできた。父に、アメフトをやろうか迷っていると相談したとき『お前は人生を二度与えられたようなものなんだから、後悔しない道を選べ』と言ってもらえて。怖いけどもう一度自分を信じたい、自分の可能性に懸けてみたい、その一心でチャレンジする道を選びました」
こうしてフットボーラーになった加藤さんは、またしても努力を重ね、最終的に約120名の部員がいるアメフト部で副主将を任されるまでになる。野球と違い、選手として大活躍し、4年間のフットボーラー人生を終えた。
「野球では努力しても実らなかった。でもアメフトでは結果につながりました。つまり、僕の活躍できるフィールドはアメフトだったということ。人はみんな活躍できる場所があって、その場所はひとそれぞれ違うのだということをここで学びました。僕の原点は、野球の挫折経験と、アメフトの成功経験にあるんです」
「自分の活躍できる場」を求めて決意した、プルデンシャルでの挑戦
挫折体験と成功体験をバネに、その後は順風満帆な人生を……とはいかなかった。加藤さんはまたしても新たな壁にぶつかる。それが就職活動だ。
「海外で働くことに憧れ、商社を希望していましたが残念ながらご縁がなく……。そこで、働いている人とビジョンに魅力を感じたコンサルティング系ベンチャー企業へ就職を決めました。『ベンチャーで思いっきり働いて、修行して、商社に返り咲いてやろう!』と意気込んで入社したんです。任せてもらえる範囲も広く、次第にやりがいを感じるようになっていました」
しかし、加藤さんは徐々に同期との力の差を感じ始めたという。
「僕は『企業研修』部門の営業でした。数百名の従業員を前に、研修を行ったこともあります。その時から感じていたのが『1対多数で話すのが得意ではない』ということ。一方でそれを得意とする同期もたくさんいたし、僕は彼らには勝てないと感じていました。会社は好きなのに、そこに釣り合わない自分……。この先どうするべきだろうか、本当にここで戦っていけるのだろうかと悩むようになっていました」
前職のまま、マネージャー職へ進む道も考えていた時に、プルデンシャルからの誘いを受けた。生命保険の営業については「良いイメージも悪いイメージもなかったけど、食わず嫌いするよりは話を聞いてから考えようと思った」のだそうだ。
「僕はどちらかというと、1対1で目の前の人に向き合うほうが好きだし、得意だと感じていました。プルデンシャルの仕事は、まさにそれ。選考の中で営業のロールプレイングを受ける機会があったのですが、この仕事こそ目の前の人に向き合える仕事だと感じたんです。さらにいえば、アメフトに挑戦すると決めた時と一緒で、『プルデンシャルの営業の猛者たちの中でやっていけたら、まだ見ぬ自分と出会えるかもしれない』と。ならば、活躍できるフィールドを求めて、思い切って挑戦してみようと決意しました」
何度も逆境を乗り越えられたのは、父からの教えがあったから
「『あまり悩んだことってないでしょ?』と言われることもあるんですが、水面下ではいつも必死にもがいているんですよ」
ここまでの話を振り返り、加藤さんは笑う。野球、就職活動、前職時代にも挫折……。だが、加藤さんは折れず、曲がらず、ライフプランナーという生き方に出会った。決してめげることがないのは、父の教えがあったからだという。
「父からよく『試練とは乗り越えられる者にだけ与えられるものである』と聞かされていました。今でも心に残っていて、それが僕の人生の指針なんです」
工場を営む両親のもとで、加藤さんは「とても愛されて育ててもらった」という。その反面、ベンチャー企業で企業研修という前職時代の仕事について、加藤さんの父からはその必要性を疑問視されることもあったという。
「だから、父に認められたいと思ってプルデンシャルでは経営者の方を中心に仕事をしている面もあるかもしれません。今では父も僕の仕事を理解してくれています。僕は両親からたくさんの愛を受けました。そんな自分が、愛をもってどんな仕事ができるのか、どうすればお客さまと、“深く、永く” 寄り添っていけるかを考えながら、日々を過ごしています」
インタビュー・執筆:山口 真央
写真:梶 礼哉