ひとには誰しも、なにか背負っていくものがあるのではないだろうか。その重さに耐えつつも日々を頑張る人、耐え切れなくなってしまう人、そしてもう一度這い上がっていく人……。

今回お話を伺ったのは、プルデンシャル生命の香川壽宗(かがわとしむね)さん。
香川さんは「エグゼクティブ・ライフプランナー」と呼ばれる、プルデンシャル生命(以下、プルデンシャル)のライフプランナー(以下、LP)における最高ランクの資格を持つ。長年、第一線で高い成績を残し続けなければたどり着けない資格を胸に、今日もお客さまのもとへ足を運び続ける。

そんな香川さんだが、実は心身ともに疲弊し、約1年間の壮絶な引きこもり生活を経験した過去がある。さらに幼少期まで遡れば、突然の父との死別、そこから始まった相続問題……。香川さんの半生は波乱に満ち、現在の「ライフプランナー」としての輝かしい姿からはとうてい想像できないような過去が広がっていた。香川さんは、どうして“もう一度這い上がっていく人”になれたのだろうか。


前編:野球と、壮絶な過去と、LPとしての原点 (←今回の記事はココ!)
後編:営業パーソンとしてのターニングポイントと、My Rules

ずっと身近にあった「野球」。今も昔も変わらない「これがあるから自分らしくいられる」

画像: ずっと身近にあった「野球」。今も昔も変わらない「これがあるから自分らしくいられる」

この日の取材は、台風近づく土砂降りの野球場で行った。「今も草野球をやっていて、ここはよく試合で使う球場なんです」。そこには、心なしか野球少年の顔つきになっている香川さんがいた。

香川さんが野球を始めたのは小学校2年生のころ。地域の消防団を務めていた香川さんの父が少年野球チームのコーチと仲良くなり、「息子さんと一緒においでよ」と誘ってくれたのがきっかけだった。

「中学までは部活で野球を続けていましたが、高校では陸上部へ入部しました。
高校に入ってから、松坂大輔さんのチームと対戦して『全然モノが違う…』とショックを受けたからです。でも野球はずっと好きでしたし身近にありました。社会人になってからも草野球を続けていましたし、コロナ禍前までは、けっこうガチでやってたんですよ(笑)」

香川さんの所属していた草野球チームには、甲子園を経験した選手が8人もいたという。だが、コロナ禍に突入してからは草野球のリーグ戦が廃止となった。

「なにかやりたいなと思っていたら、お客さまからリーグ戦にはエントリーしていないようなチームに誘っていただいたんです。これまでのガチ野球からうって変わって、めちゃくちゃ弱い(笑)。でも、盗塁もスライディングもしなくていいっていう、ちょっとゆるい感じが結構気に入っています。僕、そんなに体育会系のノリが得意じゃないので…」


大好きだった父の死と、野球が楽しめなくなった日々

画像: <ご本人提供>ご両親と弟さんとの幼少期の一枚

<ご本人提供>ご両親と弟さんとの幼少期の一枚

「野球の楽しさを教えてくれたのは、父でした」。香川さんが8歳のとき、初めて東京ドームでの野球観戦に連れて行ってくれたのだという。

「初めて観戦したその試合で、原辰徳選手(現読売巨人軍監督)がホームランを打ったのを見たんです。それが僕の野球人生の始まり。一瞬で野球の虜になりました。そのあとすぐ少年野球チームにも入りましたし、父と一緒に野球の練習もしましたね」

そんな父が亡くなったのは、香川さんが野球をはじめて2年ほどたった、当時10歳のころの話だ。

心臓発作。40歳だった。

「その日は少年野球の試合があって、汗だくのまま勢いよく自宅の玄関ドアを開けました。すると母が、『お父さんがね、亡くなっちゃったの…』って。最初は意味が分からなかったけれど、しばらく経って実感したときは泣き叫ぶほど辛かった。父が亡くなってからは、少年野球の試合に行って、いいヒットを打ったとしても、昔みたいな感動がわかなくなってしまって。父が僕に残してくれた『野球の楽しさ』が少し薄くなってしまっていた時期ですね」


暗闇の中にいるような毎日。仕事でもプライベートでもどん底を味わった

画像: 暗闇の中にいるような毎日。仕事でもプライベートでもどん底を味わった

「実は僕、元ひきこもりでもあって」――。そう切り出した香川さんの爽やかな表情からは、そんな過去があったとは思えず、つい「えっ」と声が出てしまう。

「25歳の時に結婚し、その後すぐ離婚を経験しました。引きこもってしまったのは離婚がトリガーだったとは思いますが、仕事に対して疑問を抱いていたことも大きかったです。当時は不動産の営業をしていて、『来店したお客さまを引き留め、契約するまで帰らせない』という営業手法を続けていました。それが会社では正とされていたからです。でも『それでいいんだっけ』とずっと考えていて……離婚を期に会社を辞め、実家に戻って引きこもっていました」

当時は医師から大うつ病性障害(うつ病)と診断されたものの、処方された薬を飲むのも嫌になるほどの苦痛。「死にたいという言葉が何度も頭をよぎりました」と当時の自分を香川さんは振り返る。

少し身体が動かせるようになり転職活動をするも、「内定が出ても、数日で出社できなくなる……というのが3社くらい続いてしまって、もうダメだなって」。転機になったのは、なんとチラシ配りの仕事。

「不動産販売の会社で、モデルハウスのチラシを多いときは1日3000枚くらい配っていたんですよ。そのころの自分は、人と会って話すのが怖くて。でもチラシ配りなら人と話さなくていい。すれ違うのは、散歩中の犬とおじいちゃんくらい。でもやっぱり太陽の光を浴びるってすごく大事で。必死にやっていたら、だんだん病気になる前の感覚が戻ってきたんです」


10歳で目の当たりにした“相続問題”。それがライフプランナーとしての原点に

画像: 10歳で目の当たりにした“相続問題”。それがライフプランナーとしての原点に

香川さんは、ここまで不動産営業、マンションデベロッパー、そしてプルデンシャルで保険営業とキャリアを積んでいる。そのわけを聞くと、「家庭環境がおかしくなったことが関係していて」と切り出してくれた。

「父が亡くなった直後、一番つらかったのが相続問題でした。僕の実家は港区にあって、まあまあ立地もいい。その土地は父が用意してくれたものでした。さらに父は不動産も所有していたし、生命保険もしっかり加入していた。父の遺産は母が相続するわけですが、親戚が母に対して『なぜあなたに相続されるのか』とつめ寄るようになったんです」

当時10歳だった香川さんが目の当たりにしたのは「人の死は、悲しみだけでなく、人間の欲望という感情まで動かしてしまう」という現実だった。母が責められ、疲弊していく。しまいには不動産を不必要に売却したり、他人にだまされて資産を失うこともあったという。

「今考えると、不動産業界に入ったのは、あのとき母の周りでなにが起こっていたのか、母はなぜ悩んでいたのかを知りたいという気持ちがあったのかもしれません。そして、僕は父が生命保険を残してくれていたから、不自由なく育ちました。だからいつかは保険のことも知りたかった。相続問題に巻き込まれたのは、ある意味で僕のLPとしての原点なんです」



登録日:2023年7月11日
登録番号:Pru-2023-96-0007

インタビュー・執筆:山口 真央
写真:梶 礼哉

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