「すべての子どもに 教育と成長の機会を届ける」を理念に掲げ、親を亡くしたり、様々な理由から働くことができない親を持つ子どもへの支援を続けている一般財団法人あしなが育英会。あしながウガンダの現地代表を経て、現在は日本国内の学生事業部リーダー育成課課長を務める山田 優花さんは、ご自身も学生時代に同会の支援を受け、大学へ進学した経験を持つ。

支援を受ける立場だった山田さんは、学生時代のボランティア活動を通じ、ウガンダで生きる子どもたちの過酷な人生を目の当たりにしたという。その経験から、大学卒業後はあしなが育英会に入職し、支援を提供する立場になることを選んだ。そんな山田さんから、わたしたちの周りにあふれている「機会」の価値を聞いた。


10歳の少女に訪れた人生の激変。それでも諦めなかった進学への想い

画像: 10歳の少女に訪れた人生の激変。それでも諦めなかった進学への想い
――まずは、山田さんとあしなが育英会との出会いを教えてください。

山田:父を亡くして、あしなが育英会からの支援を受けることになったのがきっかけです。幼少期からずっと熊本の父の実家で両親と妹、そして祖父母と暮らしていました。私が小学五年生になったとき、父が胃がんで他界し、その生活は一変したんです。

九州の片田舎ということもあって、長男だった父が他界したことで、次男である叔父が祖父母の家に戻ることになり、私と母と妹は父の実家を出ることに。それからは、公営の団地での生活になりました。とは言っても、高校まで公立の学校に通っていましたし、母が私たち姉妹を支えるために頑張っていてくれたので、当時は金銭的に大きな苦労をした記憶はあまりないんです。

当初、大学もそのまま地元の公立大学に進学して、英語を勉強するつもりでした。昔から英語が大好きで、成績がよかったんです。高校の先生に、公立大学への進学の意思を伝えたところ、「もっとチャレンジしてはどうか」と、外国語大学への進学を勧められて。私も、心の中では、「英語をもっと学びたい」という気持ちが強かったので、神戸市外国語大学への進学を決意しました。

そこでぶつかったのが、金銭的な問題です。地元の公立大学に進学すればなんとかなると思っていたのですが、県外の大学への進学を決めてしまった以上、学費以外のお金もたくさんかかってきますよね。あしなが育英会を知ったのは、そんなタイミングでした。

――実家を出て一人暮らしをするとなると、その分お金も必要になってしまいますからね……。

山田:おっしゃる通りで、学費よりも、住む場所の問題が大きかったんです。神戸で一人暮らしをするとなると、家賃や家具、家電、生活費など、結構な額のお金が必要になりますが、これを払う余裕はありませんでした。

なんとか神戸で一人暮らしをしながら大学に通う手段はないか……と調べていたとき、「あしなが育英会という組織があること」「育英会から奨学金を借りている大学生のための学生寮が、神戸にあること」を知りました。しかも、一般的な賃貸物件と比較すると、かなり安く住むことができると。奨学金のことよりも、「学生寮に住みたい!ここに入れたら、私は大学に行ける!」という希望が湧いてきました。


ウガンダとの出会い。底抜けに明るい笑顔の裏にある過酷な現実

――あしなが育英会の活動や運営にも興味を持つようになったのはどうしてでしょうか?

山田:実は、最初からあしなが育英会の活動に興味があったわけではないんです。当時は、とにかく「進学させてくれてありがとう!」という気持ちが強かったです。念願の外国語大学に入学できたので、「英語を活用して何かしたい……」と思っていました。

ただ、大学の授業は、英語の文法や概論などを学ぶことが中心で、「これって、本当に実生活や仕事で役立つのかな」という、物足りなさを感じていたのは事実です。

そんな気持ちを抱えていたときに、あしなが育英会が、津波や地震、テロ、病気などで親を亡くした海外の子どもたちを迎え入れる “サマーキャンプ”を開催すると聞きました。しかも、英語ができるボランティアを探していると知り、すぐに参加を決めました。

このサマーキャンプで、これまでの人生で一度も聞いたことがなかった「ウガンダ」という国の子どもたちと出会いました。彼らって本当に元気いっぱいで、公園に行くと、鳩を追いかけ回して見失ってしまうくらいエネルギーにあふれているんです。そんな子どもたちとの生活は、いろんなことが新鮮でした。

――その後、実際にウガンダへ行き、1年間のボランティアに参加されたそうですが、どのようなきっかけがあったのでしょうか?

山田:ウガンダへ行ったのは、そのウガンダの子どもたちの背景を知りたいと思ったからです。

とくに印象的だったのは食事のシーンです。ビュッフェ形式での食事のとき、彼らは自分では食べきれないほどの食べ物を席に持ってきたんです。それだけじゃなく、ポケットにパンやゆで卵を入れて、持って帰ろうとするんですよね。「そんなに食べられないじゃない……」と、最初は呆れていました。

でも、引率者に話を聞いてみると「あの子たちは普段、おなかいっぱいご飯を食べられることは滅多にないから、目の前に食べ物があると、どうしても蓄えておきたくなってしまうんだよ」と。

元気いっぱいで明るい笑顔の裏にはそんな背景があったのかと、ショックでした。自分は表面的な部分を見ていただけで、「おなかいっぱい食べられない」という、母国での過酷な現実が見えていなかった。ウガンダでは、「子どもたちを取り巻く貧困」が、日常にあふれているからこそ、 “当たり前”になってしまっていることを知りました。

「この子たちの置かれている環境をもっと知りたい」という想いが、ウガンダという未知の国に行く不安や怖さに勝って、あしなが育英会が提供する海外留学研修に1年間参加することを決意しました。


何もできなかった無力感。「いつか必ず戻ってくる」その決意が、再びウガンダへ導いた

画像1: <ご本人提供>

<ご本人提供>

――現地ではたくさんのことを経験されたと思いますが、印象に残っているできごとはありますか?

山田:一番印象的だったのは、1ヶ月間だけウガンダの中でも田舎方面のラカイ県にホームステイをしたときのことです。ウガンダ現地でのボランティア期間中、基本的には都市部での生活をしていたのですが、田舎に行けば行くほど貧富の格差が大きくなっていて、とくにラカイ県は、「本当に21世紀なの!?」と思ってしまうような場所でした。

当時ラカイ県ではエイズの蔓延によりワーキングジェネレーション、つまり子どもたちの親世代が多く亡くなって、10代前半の子どもが乳児や幼児の面倒を見ることも当たり前になっている状況がありました。

私のホストファミリーも、小学校高学年の子が、3歳や4歳の弟妹たちの面倒を見ているような家庭だったんです。水を汲むためにも数キロ歩く必要があって、大変な思いでたどり着いた水汲み場にあるのは、茶色く濁った水。もちろん浄水場なんてものはありませんから、消毒なんてされていません。彼らはこの水を飲み水にしていました。食べ物だって、原っぱで捕まえたバッタや、その辺に生えている草を食べるような生活。そのような環境で、私も暮らしました。

何に希望を持てばいいのかわからなくなるほどの環境下にいたんです。1年間が終われば、私には日本での生活が待っている。「今、目の前にいるこの子たちに何もしてあげられないんだ」と、心の底から無力感や憤りを感じました。

でも、ウガンダで感じたのはそれだけじゃありません。現地の人は、民族的な性質もあるかもしれませんが、底抜けに明るいんです。日本から来た私が見たら、絶望するような環境でも、「なんとかなるさ」って笑顔がまぶしいんですよ。サマーキャンプで出会った子どもたちをきっかけに、「何かやってあげたい」という気持ちでしたが、学ぶことの方が多かった。だからこそ、「いつかウガンダに貢献できる自分になって恩返ししたい」と思うようになりましたね。


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――ウガンダの過酷な現実と、それとは対照的に明るく前向きな人々から影響を受けたのですね。この経験が、新卒であしなが育英会に入職するきっかけになったのでしょうか。

山田:実は少し違っていて。最初は一般企業への就職を考えていました。いつかはウガンダに貢献したいという想いはあったものの、当時の私にはできることがまだ何もないと感じていたんです。なので、まずは一般企業に就職して、実力をつけてから、ウガンダへ貢献することを考えていました。

ただ、会からは「ぜひ来てくれないか」「一緒にやらないか」とずっと熱烈なオファーをいただいていて。すぐに入職するか、一旦企業へ就職するかで悩みました。最終的には、今すぐ還元できるものはなくても、まずはできることからやっていこうと。ちょっと押しに負けた部分もありつつ(笑)、あしなが育英会へ入職しました。

――山田さんのこれまでを振り返ってみると、大学の進学から現地ボランティアの参加、そして新卒でのあしなが育英会への入職と、行動力にあふれているような気がします。

山田:当時は若かったこともあって、常に思い立ったら動くという感じでしたね(笑)

あしなが育英会に入職してすぐは会長室と国際課それぞれに所属。会長室での業務がメインで、会長秘書的な働き方をしていました。ここで2年間経験を積んで、2012年、とうとうあしながウガンダに赴任することになったんです。

現場に出たいと強く思っていたこともありましたし、やっぱりウガンダには思い入れもあります。嬉しかったですね。ただ、まだ入職して2年しか経っていなかったので、不安はありました。当時のあしなが育英会は規模も大きくなく、「とにかく実践」という方針。働き方をじっくり学ぶ時間はなく、とにかくやってみようという風習です。その働き方は、個人的に合っていたのかなと、今になって思います。

ウガンダに渡ってからは、学校からドロップアウトしてしまった子どもたちのサポートをする「寺子屋」の運営や、トラブルがあった家庭のサポートをするケースワーカー的な業務を担当。そして異動してから1年で、あしながウガンダの代表に就任しました。


ウガンダで学んだ「なんとかなる」精神。 得意を生かし自分を変える

画像: ウガンダで学んだ「なんとかなる」精神。 得意を生かし自分を変える
――現地に渡って1年での代表就任。すごいスピード感ですね。当時不安はありませんでしたか?

山田:むしろ不安しかなかったです(笑)。ウガンダにはまだ男性優位な考えが残っています。そのうえ一緒に働く日本人も、みんな年上という状況だったので、就任時は「これはどうしたもんかな……」と。

あしながウガンダの運営も、ご寄付者からのご支援で成り立っています。その支援の想いを背負い、「子どもたちの環境を良くする」「子どもたちの選択肢を増やす」ことを一番に考えていました。大きなプレッシャーを抱えながら、現地代表としてどうリーダーシップを発揮していくか。

最初のうちは、自分の前に代表を務めていた人を目標に、やり方を真似しながら、その人にどうやって追いつこうか、という思考で働いていたんです。

でも、前の代表って全然私と違うんです。英語もネイティブだし、そもそも色んな経験も積んでいて能力も高い。性格も明るくあっけらかんとしている人で、みんなを引っ張るような、「代表」というポジションがよく似合う人でした。私にはとてもこの人の真似はできないと痛感させられましたね。

――前任者が自分と違うタイプだとプレッシャーになりますよね……。山田さんは、どうやってその壁を乗り越えたんでしょうか?

山田:私は元々目立つことが苦手で、穏やかに生きていきたいと思っているタイプ。そんな私が、みんなを引っ張るやり方を真似してもうまくいくわけがない。だったら、自分が得意なことを活かそうと考えました。

環境に合わせ自分を変えて、その場に馴染むことが得意なんじゃないかなと。子どもたちの家庭に訪問する時は、母親に寄り添うような温かさを意識したり、またそのコミュニティーの長に会う時は、演出して威厳があるようにふるまったりしました。その場その場で自分の役割を察知し、「臨機応変に自分を変えることで、あしながウガンダにフィットさせていく」というスタイルに行き着きました。

――ほかの人のやり方を真似するだけではなく、自分なりのやり方を見つけることが大切ですね!

山田:そう思います。同じ仕事でも、自分に適したやり方は人によって違うんだなと実感しましたね。

私たちは、どうしてもほかの人と比べてしまいがちです。でも、もしそこで差があったとしても「もうだめだ」と思い落ち込むのではなく、「まあなんとかなる」の精神で、自分らしいやり方を模索するといいんじゃないでしょうか。

ウガンダで働くって大変ですねと、よく言われますが、実際大変で(笑)。サポートがうまくいっていた家庭がいきなり蒸発したり、連絡が取れなくなったり、自分の周りの半径5メートルで起こる現実に絶望することだって日常茶飯事で、一朝一夕で解決できないようなことばっかりです。

でも、ウガンダの人たちは、そんな中でも生きがいや楽しみを見つけて「なんとかなるさ」って思えるおおらかさがあるんですよ。私もそのポジティブさに救われたことがたくさんあって、そこから「少しずつでも自分の周りから変化を起こし続けよう」と思えるようになりました。

働く環境を変えることは簡単ではないですが、自分のやり方や考え方を変えることは誰にでもできることですから。


「機会」は私たちの目の前にあふれている

画像2: <ご本人提供>

<ご本人提供>

――ウガンダでの生活や代表経験などを通して、多くのことを感じられたと思います。山田さんがウガンダで活動する中で、大切にしていた想いについてお伺いさせてください。

山田:ウガンダに限ったことではないですが、生まれた場所や環境によって、機会が失われてしまうことに対する憤りは、今でも強く感じています。私が出会ったウガンダの子どもたちの「機会」は限られています。彼らはパスポートを取ることすら難しかったり、生まれた地域から数キロメートルの範囲しか知らずに一生を終えることだって少なくありません。

違いはあれど、日本でも機会が制限される環境はたくさんありますし、格差もあります。私は、幼少期にお小遣い制度もなかったし、自分で自由に物を買うこともなく、本を読む習慣だってありませんでした。

大学に入学したころは、周りと比べると「自分は恵まれていない」という感覚が少なからずありました。でもウガンダでのボランティアから帰ってきたとき、よく見ると「自分の周りには、機会があふれていたんだ」と気づいたんです。

父を亡くした経験や、日本では簡単に助けられる命がウガンダでは失われていくことを目の当たりにし、死を身近に感じるようになりました。だからこそ、残された者として、命を全うできなかった人たちの分まで生きなきゃって思っているんです。

――機会があふれている――。なかなか気付けないことですが、山田さんがご経験されてきたことが力になっているのですね。最後に、山田さんが思う「自分らしい働き方」についてお聞かせください。

山田:これからも「いかに機会や選択肢を増やせるか」という部分は、軸として取り組んでいきたいなと思っています。

これまでは子どもたちという視点で見て、彼らを取り巻く貧困は構造的な問題だと感じていましたが、海外でいろんな人たちと働いてきて、日本の女性を取り巻く社会的課題も、構造的ですごく多いなと感じるようになりました。

私たち育英会が見ている子どもたちの家庭は母子家庭が多く、母親が非正規雇用で何個も仕事を掛け持ちしていて、なかなか安定しづらい環境にあるんだと思います。そのような環境下にある母親たちへのアプローチも考えていきたいです。

私自身、2020年に出産し、1年半の産休と育休を取得しました。復職してからちょうど1年になりますが、育児と仕事の両立が大変というよりも、子どもを持ちながらも自分がやりたい仕事ができてありがたいという気持ちが大きいです。

これからは両立して働けていることを、周りにポジティブに伝えていきたいと思っています。とくに今の職場には若い女性がたくさん働いているので、「母親になってからも働くのって大変だな」とは思われないようにしたいですね。「こんなふうに仕事を続けていけるんだ!」って思ってもらいたいから、ウガンダの子どもたちのように常に前向きな姿を周りに見せていきたい。軸となる想いは強く、「なんとかなるさ」としなやかに働くことが、私にとって「自分らしい働き方」なのかなと思います。

画像: 「機会」は私たちの目の前にあふれている

画像2: 「ウガンダが教えてくれた、強くしなやかに生きること」山田優花さんが伝える「機会」の価値

山田 優花
一般財団法人あしなが育英会学生事業部リーダー育成課課長。10歳のときに父親を亡くし、あしなが育英会の奨学金を受けながら神戸市外国語大学に進学。2010年あしなが育英会に就職し、2012年よりあしながウガンダ勤務、2013年からあしながウガンダ現地代表を歴任。

あしなが育英会ホームページ   https://www.ashinaga.org/

取材・執筆:宮﨑 駿
編集:山口 真央(ヒャクマンボルト)
写真:KEI KATO(ヒャクマンボルト)

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