「ラトビア」という国をご存じだろうか。ヨーロッパ・バルト三国のひとつであり、1991年に旧ソ連から独立した比較的新しい国だ。人口は200万人弱で、北海道札幌市と同程度。日本からは飛行機を乗り継ぎ丸1日ほどかかるその小さな国にたびたび訪れ、現地で“ラトビアで一番有名な日本人”とまで呼ばれる女性がいる。愛知県でラトビアハーブティー専門店『ライマ』を経営する、内堀宜江(うちぼり・のりえ)さん。

内堀さんは「ラトビアで本当の“豊かさ”を知った」と話す。そしてそれを「日本で広めたい」とも。内堀さんがラトビアで感じ取った“豊かさ”とはどのようなものなのか。そしてそれを広めるための選択肢とは。

“ラトビアで一番有名な日本人” は、舞妓を夢見る少女だった

内堀:いえ、全然違うんです。 「ラトビアにルーツがあるの?」と聞かれることも多いのですが、私は生まれも育ちも愛知県で、今も愛知に暮らしています。

ラトビアとの出会いは大学生の頃でした。ラトビアに魅了され、それ以降たびたび訪れているうちに、現地の知り合いから「ドキュメンタリー映画に出演しないか」ってお声がけいただいて。その映画『ルッチと宜江』がラトビアの映画賞を受賞したことで有名になり、私自身のことも広く知ってもらえるようになりました。

そんな私ですが、子どものころはむしろ「和」が好きだったんですよ。

内堀:幼い頃は共働きの両親が忙しく、ほとんどの時間を祖母と過ごしました。「和」が好きな祖母に影響を受けて、私も着物を着たり、日本舞踊を習ったり。日本髪を結って高枕で寝てみたい……そんなことを考えている子どもで。そして中学3年時、周りが受験勉強に励む中で、私の進路希望は「舞妓さん」でした。


内堀:そうそう。でも、両親も祖母も大反対でした。それでも、舞妓は初めて自分からやりたいと思えたことです。どうしてもあきらめきれなかったので、当時世に出てきたばかりのインターネットを駆使して自分で調べ、祇園の置屋 の存在を知りました。「置屋に行ってみたい」と言う私に、両親も「きっとそれで諦めてくれるだろう」と思ったのか、京都に行くことを許してくれて。1週間だけという約束で夏休みに置屋生活を体験させてもらいました。夢にまでみた舞妓の世界を体験して、諦めきれない気持ちもありましたが、高校進学への道を進むことにしました。

※舞妓さんが暮らす寮のような場所のこと

内堀:今考えると、祖母の影響もあって日本が大好きで、海外に日本文化を広める人になりたかったように思います。その考えは高校進学を決めても心のどこかにあり、普通科ではなく国際科のある高校へ。その後、大学も国際関係学部へ進みました。

そして大学4年時に内閣府が募集していた海外青年との交流事業に応募し、バルト三国を巡ったのが、ラトビアとの出会いです。