画像: 傷ついた心は回復する? ジェーン・スー<最終回>

ジェーン・スー

1973年、東京生まれ東京育ちの日本人。作詞家/コラムニスト/ラジオパーソナリティ。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」、ポッドキャスト番組「ジェーン・スーと堀井美香の『OVER THE SUN』」「となりの雑談」のパーソナリティとして活躍中。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎)で第31回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)、『闘いの庭 咲く女 彼女がそこにいる理由』(文藝春秋)、『へこたれてなんかいられない』(中央公論新社)などがある


1978年にリリースされたグロリア・ゲイナーの名曲「アイ・ウィル・サヴァイブ」をご存じですか? タイトルは知らなくても、一度は耳にしたことがある方も多いと思います。

歌詞の内容はこんな感じ。恋人からひどい仕打ちを受け、失恋した主人公。打ちひしがれていたところに、元恋人がひょっこり戻ってきます。しかし、相手をキッパリと拒絶して自らの足で再び立ち上がる。そんな、大変勇気づけられる曲です。

誰にでも、ひどく傷ついた経験があると思います。私にもあります。小学生時代に男子から投げつけられた悪意のある言葉、母親が想像よりずっと早く亡くなってしまったこと、突然の失恋、大切に思っていた友人の裏切りなどなど。数えればキリがありません。

傷ついたのならば、そこには傷をつけてきた相手や事象があるわけですが、その場面を「傷つけられた」と記憶しているか、「傷ついた」と記憶しているかで、手放すまでの時間は変わる。私が大人になってから気づいたことです。きっかけはアラサー時代の大失恋でした。

失恋したとき、母親が亡くなった頃より苦しい気持ちを抱えている自分に気づき驚きました。あれほどつらいことは未来永劫ないと思っていたのに、もっともっと苦しかった。その理由をじっくり考えてみると、この苦しみには喪失感だけではなく、「傷つけられた」という恨みがあったのでした。母の死で母に傷つけられたとは思っていませんでしたから、途方もない悲しみはあれど、恨みはなかったのです。

一方、失恋で傷心と恨みが綯い交ぜになった私の心が、別の人生を歩むことになった相手の幸せなど願えるはずもありませんでした。「傷つけられた」ことにずっと執着していました。そう認識することで、別れた相手とずっと繋がっていられるような気持ちになっていたのかもしれません。藁にもすがる思いだったのでしょう。現在進行形の傷つきであると意識することで、さみしさを紛らわせていたとも言えます。そうするしかなかったのですが、あまり健全だったとは言えません。

大失恋。当時は、私の身にだけに起きた類稀なる悲劇だとさえ思っていました。しかし、しばらくすると、よくあるただの失恋に過ぎなかったと気づくわけです。相手にほかに好きな人ができて、振られただけ。世界中で起こっていること。いま考えると、悲劇のヒロイン気取りの自分に笑ってしまいます。でも、あの時は仕方なかった。自分の心を守るために、そういう解釈も必要だったのだと思います。

ここからが難儀な話で、一時的に自らの心を守る作用をもつ「誤解釈」もしくは「超解釈」は、しばらくすると心を蝕む毒になります。事実はひとつでも真実は人の数だけあるものですが、心を守るためにこしらえた「私の真実」を記憶に定着させてしまうと、今度はその真実に苦しめられることになる。傷つけた相手や事象を恨む気持ちに飲み込まれてしまいます。

傷つけてきた相手に落ち度がないと言いたいわけではありません。やられた悪事を忘れろという話でもありません。ただ、自分の傷つきを世界でたったひとつの孤独な経験と捉えたり、傷つきを現在進行形のものと認識したりすると、ずっと苦しむことになる。「あれはひどい出来事だったわ、傷ついたわ」と、現在の自分とは切り離したほうが、私の場合はのちのち楽になりました。「傷ついた」は常に過去のことなので、それをいまから変えることはできませんから。

まだ傷ついているのに、という声もあるでしょう。当然そうですよね。その場合は、「あの時点で傷ついた。その傷はまだ癒えていない」と考える。「傷ついている」と「傷はまだ癒えていない」は同じようで異なります。「まだ癒えていない」は、傷ついた瞬間よりは回復に向かっていると捉えるのです。

傷ついた記憶は、「アイ・ウイル・サヴァイブ」に出てくる元恋人のようなもの。ふらっと脳内に戻ってきて、また同じようなつらい目に合わせようとします。そこで怯むことなく、「I should have changed that stupidlock(鍵を変えておけばよかった)」「'Cause you're not welcome anymore(あなたはもう歓迎されない存在)」「Go on now, go Walk out the door(さっさと出て行ってちょうだい)」と言えるようになるには時間を要します(*)。しかし、「傷つけられた」を「傷ついた」と自分軸に変換し、「あれは過去の一地点の話で、いまも傷は癒えきってはいないが、傷つきは現在進行形ではない」と認識しなおすことで、徐々に恨みを手放すことはできるかもしれません。少しずつでも恨みを手放せたら、しめたもの。傷ついた心は少しずつ回復に向かっていくでしょう。恨みさえ手放せれば、傷つけた相手や出来事を許さなくてもいいんです。

グロリア・ゲイナーは、こうも歌っています。「Oh, as long as I know how to love I know I'm still alive I've got all my life to live(愛する方法を知っている限り、私は生きていける。私にはこれからも人生がある)」と(*)。そうやって、威勢よく元恋人を追い出すのです。この人がいないと生きていけないと震えていたことなど嘘のよう。

傷ついた心を否定したり、無理やりに叱咤激励したりする必要はありません。傷跡も自分の一部として受け止め、現在の自分を否定してくる過去の記憶だけを毅然と追い払う。だって、過去の自分は脇役だもの。いまの自分こそが主人公です。

おめでたいヤツだと思われそうですが、いまの私は、傷つけられたことで本来の価値が棄損され未来が閉ざされたとはまったく思っていません。むしろ、傷跡も含めて価値が上がったと確信しています。無傷の私より、ずっとずっと信用できる。だって、そこから立ち上がったんですから。

(*)1978年「I will survive」 lylics & music : DINO FEKARIS , FREDERIC J PERREN

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