「弁護士」と聞いて、どんな人を思い浮かべるだろう? ルール(法律)に則り物事を判断する、論理的かつ合理的な判断をするといったイメージが先行する人も多いのではないだろうか。

しかし、そんなイメージのある弁護士から、人と「情」でつながる世界を求めてセカンドキャリアを選択した女性がいる。プルデンシャル生命で営業管理職に就く、藤田沙穂里さんだ。彼女はこの春、同社で女性の前例が極めて少ない “支社長” に就任した。これからは“支社”という一つの組織をまとめ、経営することになる。

そんな藤田さん、学生時代には大きな挫折を経験し、その後、長い苦学の期間を経て念願の弁護士となったという経歴を持つ。彼女はその後、なぜ生命保険会社の女性リーダーとなる道を選んだのか――。

彼女を突き動かす原動力は、30歳のときに人生の恩人から贈られた、一つの “言葉”だった。

前編:恩人との出会い、そして弁護士になるまで(←今回の記事はココ!)
後編:プルデンシャルに転職して得たものと「My Rules」


“商売人”として信念を貫いた「父の背中」が、私の原点

画像: “商売人”として信念を貫いた「父の背中」が、私の原点

「距離を縮めるのが上手な方だな」というのが藤田さんの第一印象だった。それは、物理的な距離ではなく、心の距離。初めて話すのに、どこかで会ったことのあるような感覚に近い。“弁護士”という肩書きに対する緊張が解けていった。

藤田さんは、京都で呉服業を営む両親のもとで育った。

「もともと母の兄が呉服問屋を経営していて、父はそこに“営業マン”として就職し、その後独立しました。父は優秀な営業で、出入りしていた名だたる企業の方から共同事業のお誘いもいただいていたそうです。それでも、『自分の目の届く範囲で、お客さまの顔が見える商売をしたい。着物という風習を通じて日本文化を守りたい』という信念を貫いた人でした」

保育園に通うころには、すでにお店を手伝っていたという藤田さん。「検品などを手伝い、商品の数を数えることで『算数』を学び、お客さまを訪ねる父に付き添うことで『会話』を学びました。他にも『自分らしく楽しく働くこと』や、『お客さまと接する姿勢』も、父の影響を強く受けていると思います」

「京都なら呉服問屋はいくらでもあるのに、お客さまは父の人柄を慕ってうちで呉服を仕入れてくださったり、新たなお客さまとのご縁までつないでくださる。お客さまという存在には、感謝しかありません。そしてこの感覚はライフプランナーの仕事とよく似ているんですよ」

幼いころから目にしてきた父親の信念が、今の藤田さんの原点になっているようだ。


初めて味わった挫折。順調だったのになぜ、と自問する日々

画像: 初めて味わった挫折。順調だったのになぜ、と自問する日々

「そもそも、私は弁護士になるつもりはなかったんです。でも、学生時代に弁護士の力を必要とした時期があって、その経験がきっかけで弁護士を目指すようになりました。少し長い話になりますが、聞いていただけますか」

そう言って、藤田さんはゆっくりと自分の過去を振り返ってくれた。

「小学生の頃から、友達と付き合うよりも読書に没頭する子どもでした。図書館で読む本がなくなって困るほど。活字が好きだったというよりも、歴史・宗教・哲学などに触れて、史実の背景を知り歴史を読み解くことが好きだったんです。お寺や美術館や博物館に通い、大昔に想いを馳せることも好きでしたね」

京都の名門中学・高校に進学し、成績は常に学年トップ。先生からもクラスメイトからも一目置かれ、大学は東京の難関私大へ合格した。しかし、そんな藤田さんに試練が訪れる。

「大学卒業後は、東京でいわゆる“バリキャリ”として働きたいと思っていました。でも、ある深刻な事件に巻き込まれてしまい、一人になるのが怖くて自宅にも帰れず、友人の家を転々とする毎日が続いて……。弁護士の先生の力を借りて事件は解決しましたが、就職活動は一切できませんでした」

友人たちが、次々に大学院への進学や官僚への道、一流企業への就職を決めていく中で、藤田さんは進路を決めることすらできなかったのだ。

「自分はこの先どうしたらよいのだろう。今までうまくいっていたのに、なぜ――」。

挫折感に苛まれる藤田さんに、進むべき道を示してくれた人物がいた。それが、藤田さんが巻き込まれた事件を解決に導いてくれた弁護士の木村先生(仮名)だった。

「先生は、事件が解決したときに『報酬はいらないよ』とおっしゃいました。そして、進路が決まらない私に、『被害者の気持ちが分かる君なら、きっといい弁護士になる。だから報酬を支払う代わりに、司法試験を受けてほしい』と。先生がどこまで本気だったのかはわかりませんが、私は『そうか、その選択肢があったか』と、小さな光が見えた気がしました」


「君とはもう二度と会わないよ」。今も胸に灯る恩人の言葉

画像1: 「君とはもう二度と会わないよ」。今も胸に灯る恩人の言葉

人生の目標を取り戻した藤田さんは、地元の京都に戻りアルバイトを始めた。やっとの思いでロースクールに通う資金を貯め、猛勉強の末に司法試験に合格。弁護士資格を取得した。

「決して楽な道ではなく、大学卒業から司法試験に合格するまで、5年近くかかったんです。もちろん木村先生にもご報告しました。でも……」

藤田さんの報告に、先生は涙を流して喜んでくれたという。しかし、帰り際に「また事務所に伺ってもよいですか?」と聞いた藤田さんへの返答は意外なものだった。

「先生は、『君とはもう二度と会わないよ』とおっしゃった。『君の名前が僕のところまで聞こえてくるくらいの事を成してください』と。それから十年以上が経ちましたが、今でも私はこの言葉に突き動かされているんです。なにか社会に貢献できることをしないと、先生のところに私の名前は届かない、って――」

その後、弁護士として法律事務所に勤めキャリアを磨いた藤田さん。困りごとを抱える方の助けとなるべく徹底的に資料や証拠を集め、ロジカルに組み立て、司法の判断を待つ。

「世の中は法律という“ルール”で成り立っています。そのルールを知らずに、ただ『剣』を振り回すよりも、ルールという『盾』も持っていた方がいい。その手助けができる弁護士という仕事は素晴らしいと思います」

しかし、弁護士としての経験を積む中で、自分の成長に限界も感じていた。「依頼を受け、法に照らして方針を決め、解決に向けて尽力する。素晴らしいことですが、それを一生繰り返していくのかと。胸には先生の言葉がありますから、『イチ弁護士である自分に、社会的に意義があってインパクトを与える仕事ができるのだろうか』と考えるようになっていました」

このタイミングで、藤田さんはヘッドハンティングの誘いを受ける。相手は、のちに藤田さんをライフプランナーとして採用することになる、プルデンシャルの彌山岳寛(ややま・たけひろ)さん(現:京阪第二支社長)だった。

「第一印象は、とにかく熱い人だなと(笑)。弁護士は『情』に流されてはいけない仕事です。一緒につらくなってしまうし、何より冷静な判断ができなくなってしまっては仕事になりません。でも、目の前に現れた彌山さんは、『情』に生きる人でした」

プルデンシャルなら、自分が育った呉服問屋のように、人と「情」でつながれる。そして、弁護士として培った知識で人の役にも立てる。自分にしかできない道が開けるのでは――。

「ここなら、きっと勝負できる。彌山さんと出会って、そう思ったんです」

画像2: 「君とはもう二度と会わないよ」。今も胸に灯る恩人の言葉

撮影:梶 礼哉


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