今回の主人公は、元スピードスケート選手の髙木菜那さん。幼い頃からスケートを始め、2018年の平昌オリンピックでは、妹の美帆さんとともにチームパシュート種目で「日本初の姉妹同時金メダル」を、そして同オリンピックで新種目となったマススタート種目でも金メダルを獲得し、初代女王の座に輝いた。日本人女子初の「冬季オリンピックでの2冠獲得」だった。
そんな輝かしい功績を持つアスリートと聞くと、「幼い頃から人並外れた才能やセンスを持つ人」「想像を絶する努力を重ね、人生のすべてをその競技に捧げてきた人」「自分とは違う世界で生きている人」……そんなイメージを持つかもしれない。しかし、菜那さんは違う。「幼少期からスケートひと筋の選手人生だったのか」と問うと、「いえ、全く違いますね」とほほ笑む。
世界一を目指すとは、どういうことなのか。菜那さんのスケート人生を好転させた「自分で考えるチカラ」とは何か。なぜか「うまくいかないな……」と悩む人にとって、浮上の手がかりとなるかもしれない。
「スケートのための人生じゃない」
菜那:そうなんです。私は兄と妹の真ん中で、幼い頃から兄の影響でスポーツをやっていました。兄がスケートを始めたのは、私がまだ小学校1年生・妹の美帆が5歳のときでした。練習場のスケートリンクが家からやや離れていて、兄が帰ってくるのがいつも遅くて……。美帆と2人で留守番しているのが寂しかったんですよね。それで私と美帆も一緒に、兄にくっついてスケートを始めることにしました。
兄は、すごく優しい人間なんです。いつもは美帆と2人で「髙木姉妹」と称されることが多く、あまり兄の存在は表に出ません。でも実は、私たち姉妹はいつも兄の背中を追いかけていたんです。小さい頃からいつも私と美帆の間に入ってくれていましたね(笑)
それに対して、妹の美帆はいっつも私のマネばっかりしてきて……。「マネしないでよ!」ってよく怒ってました(笑)。スケートを始めたのもそうですし、高校も兄や私の後を追って同じ高校へ進学したんですよ。鬱陶しく感じていたときもありますが、仲が悪いというわけではなくて。どこにでもいる“ふつうの姉妹”でしたね。今はすごく仲良しですよ。
菜那:私にとってスポーツは「習い事」という感覚でした。兄の影響で3歳から水泳を始めて、小学校に上がってからはサッカーにも打ち込んでいましたね。「昔からスケートをやっていたんですよね?」と聞かれることもありますが、幼少期は水泳・サッカー・ダンスといろいろやっていました。
スポーツは好きでしたが、「その競技が好きだからやっていたのか」というと、そうではなくて、何よりも学校外の友達に会えるのが楽しかったんだと思います。
そんな中でスケートに専念し始めたのは、高校1年生のとき。単純に、サッカーよりもスケートのほうが手ごたえがあって、結果が出ていた。だからスケートに専念しようと思ったんです。スケートのような個人スポーツと、サッカーのような団体スポーツ、そのどちらも経験して、自分の実力が結果に反映される個人種目のほうが向いているとも感じていました。
菜那:全然!高校生らしく友達と遊びまわっていました(笑)
アスリートは学生時代からストイックなイメージがあるかもしれないですが、私は当時から「スケートのための人生じゃない」と思っていました。
高校自体も、いわゆるスケートの名門校でなくて、部活(スケート)や学校行事とも両立できる学校を選びました。スケートに専念するなら、修学旅行も参加せずに練習に打ち込むようなスタイルの学校もあったのですが、私はそうしたくなかった。もちろん部活には力を入れていましたし、結果を残したくて2〜3年生の時には自主練にも取り組みました。
でも、人生の中でたった3年間しかない高校生活を、しっかり楽しみたかったんです。
学校行事や、先輩・友達との時間を、スケートのために犠牲にすることは考えられませんでした。運動部の先輩と夜集まって花火をしたり、友達とお祭りに行ったり。かけがえのない3年間でしたし、私の人生にとって大事な時間でした。今でも高校時代の友達とはとても仲が良いんです。
分かれ道に立っていた、ラストチャンスの1年間
菜那:所属していたチームには、「3年目までに結果を残さないと先がない」という雰囲気がありました。なんせ、日本中のトップ選手が集まっているチームです。周りのみんなは高校卒業後にすぐシニア大会に出て結果を残しているのに、私は2年間なかなか結果が出せなかった。
だから、所属して3年目の最後の1年間は、私にとってラストチャンスだったんです。「ここで結果が残せなければ、引退する」と覚悟して打ち込んでいました。
いろいろ悩み、つらい時期でしたが、そういう時間があったからこそ自分としっかりと向き合うことができて、結果的には“最後のチャンス”を掴めたのだと思っています。
菜那:「考え方」です。チームに入ってすぐ、先輩から「まず“自分で考える”ことをしなさい」と言われたんです。ハッとしました。
今まで誰かに教えてもらったことを一生懸命やってきたのですが、それだけではだめでした。自分で考えられるように切り替える必要があった。自分にとっての正解を見つけるために、どれだけ自分の頭で考え、トライアンドエラーを重ね続けていけるか。
限界を超えて、世界に通用する実力をつけるために「自分には何が必要なのか」を、自分で必死に考えるようになりました。これが私の、選手人生の分かれ道だったと思います。
菜那:いや、めちゃくちゃ不安でしたよ!
考えた末の行動がすぐに結果として現れるものではないから、合っているかどうかなんてすぐはわかりません。練習の時も、今日はここを意識してみようとか、色々と自分で考えてみるように変えて、一生懸命努力しているつもりでも、2年目の冬まで全然結果が残せなくて。でも、ある先輩の言葉に救われたんです。
「すぐに結果が出せなくても、そうやって自分で考えて、行動に移して努力したことは、1、2年後、たとえ5年後だったとしても、必ず自分のものになる。だから今やっていることは、無駄じゃないんだよ。自分の力を信じろ」って。
その言葉で、「やるしかないな」って思えました。もしこのまま結果が出せなくても、きっとここで努力したことはいつか何かに繋がってくれる。
それから、もっと速くなるために必要なことを自分で考えて行動に移していきました。
例えば、トップ選手のウォーミングアップやスケーティングを研究して、良いと思ったことを取り入れることも始めました。逆に、自分で考えて辞めたこともあります。例えば、体力をつけるために続けていたランニング。オリンピックシーズンに差し掛かる頃には、今の自分に必要なのは技術力を上げることだと考えて、技術練習に重点を置きました。
そうやって正解かどうかわからないなりに続けていく中で、次第にタイムがよくなってきたんです。今まで勝てなかった先輩方にも、気づけば勝てるようになっていた。日本で1位・2位を争うタイムを出せるようになっていました。
この時の経験が、私の座右の銘「努力することに無駄なことはひとつもない」の由来です。「自分の頭で考え、行動に移していく大切さ」を改めて感じたんですよね。
オリンピックとは、「出場する場所」じゃなくて「結果を残す場所」なんだ
菜那:出場選手に選ばれたときは、本当に嬉しかったです。ずっと目標にしてきましたから。でも、出場してみて「オリンピックは、結果を残す場所なんだ」と痛感しました。
世界中から「金メダルを取りたい」と願うトップ選手が集まり、戦う場所だからこそ生まれる、あの空気感。やはり他の大会とは違うんです。ただ「オリンピックに出たい」という選手と、「絶対金メダルを取りたい」という選手では、当然結果に差が出る。目指す場所によって残せる結果は全く違うことを知りました。
ソチオリンピックで結果を残せず、次の平昌オリンピックまでの4年間は、“金メダルを取る”ことだけを考えていました。「金メダルを取るために、できることはすべてやる」。
そんな想いで、練習はもちろん、食事管理やメンタルケアを強化し始めたのもこの頃です。今のままじゃ全部ダメだと。オランダにスケート留学をして、一流の選手たちのトレーニングや食事法などをイチから学び直し、ひたすらアップデートを重ねました。
菜那:プレッシャーというのとは少し違うんです。「金メダルを取らなきゃいけない」と追い込まれるようなプレッシャーはなくて。もちろん、自分の100%の力が出し切れるかという緊張や不安はありましたが、ここまで来たらあとはもう、全力を出して戦うしかない。
特に、チームパシュートはチーム競技です。オリンピック前の世界大会では、順調に世界記録を出せていた。メンバー全員が本気で「金メダルを取りたい」という想いで、試行錯誤しながら身を削り、必死に4年間練習を積み重ねてきました。だからこそ、追い求めていた金メダル獲得が叶った瞬間は、色々な想いが溢れてきましたね。
最高の仲間と“世界で一番”という最高の結果を残せたことは、私の人生にとってかけがえのない経験になりました。
時には、一度休んでもいい。心を潰さないために。
菜那:自分を客観的に見るために、「自分の心と対話」するんです。紙に書き出すこともあるし、頭で考えるだけのこともあります。あるとき、厳しいトレーニングにおいては、「体のケア」だけでなく「心のケア」もとても大切だと気づきました。自分の本音である心の声を無視していると、心が潰れてしまうなと。
アスリートに限らず、挫けそうなときや悩んでいるときって、主観や感情的にものごとを考えてしまいませんか? だから「(悩んでいることに対して)本当にそうなのか?」と、客観視するところから始めます。時間をかけて、自分はどうしたいのかを心に問いかけながら、次の行動を導き出すようにしているんです。
菜那:そうですね。大学へは行かず、高校卒業後はスケート1本に絞りました。それは自分にとっていい選択だったと思っています。でも、私は世の中のことを全然知らないなって感じたんです。
スピードスケートの選手としての生活をやり切ったからこそ、これまで培ってきた経験・知識をもって、自分でお金を払って大学に行くことで学べる楽しさがあると思います。そして、アスリートとしても人生の先輩としても尊敬する、室伏広治さんからの「世界も広がるし、出会いも広がるよ」というアドバイスが大きかったです。
つい先日、トレーナーと「スピードスケーターは科学者寄りの脳の使い方をしているよね」という話をしていて。スピードスケートは100分の1秒を争う競技だからこそ、さまざまなスケーティングやトレーニングを科学的に分析して、それを自分の身体で実験しながら検証していく。そのプロセスが、大学院のスポーツ学科での学びと似通っていたりして、これまでの自分の感覚とリンクする部分が、すごく楽しいんです。
他のお仕事とも両立して通っているので、それなりに忙しくはなりましたけど……引退してから休みの日に何をして過ごしたらいいのかわからなかったので、むしろ今は「忙しくしてる自分、いいじゃん!」って思っています(笑)
菜那:そうですね。本当につらかったら、休んでいいと思うんです。しんどさを抱えている人は、「ここで足を止めたら、これまでの努力が無駄になる」と考えて、つらくても頑張り過ぎてしまう人が多いんじゃないかと思います。
繰り返しになりますが、努力したことはひとつも無駄にはならないですし、きちんと自分の力として身についているんです。ときにはつらさを乗り越えることも必要ですが、いつも頑張り過ぎてしまう人は、心が潰れてしまう前に一度しっかり休んでみてほしい。
身体だって、酷使すると疲労骨折を起こすじゃないですか。アスリートは疲労骨折をしないように、適切な休みを挟みながらトレーニングをしているんです。限界があるのは、身体も心も同じ。そして限界を超えてしまったら、治るまでにものすごい時間がかかってしまいます。
だからこそ、心が限界を迎える前に適切な休みを挟みながら、それぞれの夢に向かって自分に合ったペースで歩んでいって欲しいと思います。
髙木菜那
1992年7月2日、北海道中川郡幕別町で生まれる。7歳から兄の影響でスピードスケートを始め、全国中学校スケート大会女子1,000mで優勝。帯広商業高校時代は、2010年世界ジュニアスピードスケート選手権チームパシュートで妹、美帆らと銀メダル。14年冬季五輪ソチ大会で日本代表に初選出。18年平昌大会では、女子団体パシュートでオリンピックレコード。新採用されたマススタートも合わせて、日本の女子選手初の2冠を達成。22年北京大会では女子団体パシュートで銀メダル、個人1,500mで8位入賞。同年4月5日、現役引退。趣味は漫画を読むこと。座右の銘は「努力をすることに無駄なことはひとつもない」。
取材・執筆:小泉京花
編集:山口真央
写真:梶 礼哉