日常を手放してでも、「その世界を見てみたい」と思えるか

野口:とにかく高倍率であることはわかっていたので、選考が進むなかでも深く考えずに、「すごい人がいるんだな」とか「珍しい経歴の人も参加しているんだな」とか、事実を客観的に受け止めるようにしていました。でも、徐々に人が減っていって最終試験の5人に残ったとき、「もしかしたら、合格するかもしれない」と、ようやく実感が伴ってきた。

ただ同時に、もしも合格したら転職しなければいけないですし、アメリカで生活しながら養成学校にも通うことになるわけです。つまり、これまでの生活がガラッと変わってしまう。家族の生活環境だって変わります。それって非常に大きな決断じゃないですか。最終試験では、本当にその覚悟があるのかを問われていたような気がします。

野口:もしもそこで臆する気持ちがあったら、合格していなかったと思います。それまでの生活を変えて、知らない世界に飛び込めるのか。その覚悟を問われた。でも、それって実は、宇宙飛行士が宇宙に飛び出すときと同じ感覚なんです。だから、落ち着いた生活を投げ売ってでもアメリカで宇宙飛行士としての勉強ができるかどうかというのは、自らの命をかけてロケットに乗り、宇宙に行けるかどうかと同じくらいの覚悟が試されていたともいえる。

そこで決断ができたからこそ、僕は合格できたんじゃないかなと思います。もちろん若かったというのもありますが、それまで培ってきたものをリセットしてでも宇宙へ行ってみたかった。学生の頃に抱いていた宇宙への憧れが、僕を突き動かしていたように思います。

野口:その時点ではただの「候補者」なので、なにも知らないわけです。だから、宇宙のこと、ロケットのこと、それから宇宙空間でやるような科学実験のことや宇宙ステーションを造ることについての基本的な勉強をします。つまり座学ですね。並行して、パイロットとしての訓練も受けます。宇宙空間でロケットを操縦するには相当なストレスがかかる。それに近いのがジェット機なので、その操縦を学ぶんです。その他、候補者として、テレビ番組などでの啓発活動、広報活動にも従事しました。

野口:もちろんありましたが、やはりプレッシャーも大きかったですね。候補者のなかにはすでに宇宙産業に携わっていたような人もいたので、彼らと比べると、僕はなんの知識も技術も持っていない。だから必死に勉強しなきゃいけないんですが、言語は英語なわけです。非常に負荷が高くて、しんどい時期でもありました。

野口:1996年に候補者に選ばれ、2005年にスペースシャトルで地球を飛び立つまで9年かかりました。その間、ただ待っていたわけではなくて、基礎課程を終え、宇宙空間でやりたいことに向けての計画を立て、それに向けての準備をしていたんです。僕の場合はやはり船外活動をしたかったので、教官と一緒に準備を進めていました。そうして幸いなことに、2005年の宇宙飛行のメンバーに選ばれ、しかも船外活動をするチャンスが得られた。

宇宙船の窓越しに見る地球は息をのむほどの美しさでしたが、やはり船外から自分の目で見た地球の壮観な輝きは、いまも脳裏に焼き付いています。手を伸ばせば届くのではないかという距離に、まばゆいばかりの光に包まれた地球が浮かぶ光景に胸を打たれました。そして、音も光もない漆黒の宇宙空間においては、地球も僕も同じひとつの生命だと思えたのです。