東北地方最大の祭り、「青森ねぶた祭り」。来場者の目当てはもちろん、色鮮やかに彩色された巨大な山車灯篭“ねぶた”だ。その制作を一手に担うねぶた師は、2024年現在18名しかいない。その中に、注目を集め続けている女性のねぶた師がいる。今回のミモザなひと、北村麻子さんだ。2012年、ねぶた師としてデビューすると初年度で入賞。2017年には最も優れたねぶた師に贈られる最優秀制作者賞にも輝いた。近年は松屋銀座、星野リゾート、スポーツブランド「umbro」などともコラボレーションするなど、その存在感を増している。

「六代目ねぶた名人」という肩書きを持つ、ねぶた師・北村隆さんを父にもつ北村さん。幼い頃からすべての情熱をねぶたに注ぐ父の姿を間近で見てきた。だからこそ選んだ、ねぶた師の道。父から受け継ぐものと後世へと伝えたいものとのはざまで、北村さんが歩むねぶた師としての生き方とは。

※2019年動員者数


自分の生き方を変えた「ねぶた」

北村:テレビや新聞で完成形のねぶたは見ることはあっても、この状態のねぶたはなかなか見られないですよね(笑)。5月上旬にねぶた小屋が立ち、そこから骨組みを合わせ、紙を貼って……。夏に向けて一気に作り上げていきます。とはいえ、オフシーズンも構図を考えたり、パーツを作ったり。1年を通じてずっとねぶた制作をしているんですよ。

北村:青森県、とくに青森市に住む人は、お母さんのお腹の中にいるときから、夏のねぶた囃子の音を聞いて育つんです。そのお囃子の音が聴こえてくるだけで心踊るような、うずうずと、黙っていられなくなるような、そんな気持ちになる。

青森は豪雪地帯ですから、雪が降る過酷な冬も、夏のねぶた祭りの一週間があるから乗り越えられる。青森市には、ねぶたを待ちわびる人がすごく多いんです。

▲祭り期間中は、長い沿道を埋め尽くすほどの観客でにぎわう 提供:北村麻子 撮影:成田恭平

北村:そうですね。5月くらいからお囃子の練習が始まるんです。この音を聞きながら仕事をしていると、応援されているような気もするし、「もう祭りはすぐそこだよ」って、まくしたてられている気もするし(笑)

……よくスタッフとも話をするんですが、「親に肩車してもらいながらねぶたを観た記憶がある」ってみんな言うんです。親たちが、童心に帰って本気で祭りを楽しんでいる姿を観て、子どももワクワクするし、楽しい思い出が残る。そうやって代々、親子で受け継がれて続いているのが「ねぶた祭り」なんだなって。

私自身、父がねぶた師ですから、ねぶたはとても身近なものでした。父がねぶたに人生のすべてを賭ける姿を物心がつく前から見てきたし、その父に手を引かれながら兄弟3人でねぶたを観に行った、いい思い出があります。

▲取材は5月上旬、青森駅からほど近い津軽海峡にて。この日も夕方以降はかなり冷え、冬の豪雪地帯の厳しさを思わせる

北村:じつは、最初からねぶた師になりたかったわけではなくて。当時、私は20代前半でなかなか生涯をかけたいと思える仕事に出会えず、職を転々としていました。いくつか資格を取ったりして、いま考えると結構悩んでジタバタしている時期だったと思います。

その頃、父は父で仕事が少しずつ減ってきて、膝を悪くして……という状況で、ねぶた師としてとても苦しい時期を迎えていました。苦しくて、やり場のない思いがあったはずです。そのせいもあって、母との喧嘩が絶えず、家庭内はぐちゃぐちゃに……。

そんな時期が3年ほど続き、その翌年のねぶた祭り。父が全身全霊をかけて作った作品『聖人聖徳太子』を目の当たりにして、人生観が変わるくらい、ものすごい衝撃を受けました。

仮に、父が順風満帆にねぶたを作ってきた姿を見ていたら、私自身そこで人生を変えるほどの衝撃は受けなかったと思います。でも家がボロボロになるほどに、どん底まで落ちても諦めず這い上ろうとする父の姿と、その結果できあがった素晴らしい作品を見て、「これは父の代で終わらせてはいけない。父の技術を後世に残さないといけない」と感じたんです。

その作品は、その年の最優秀制作者賞にも選ばれました。

北村:そうですね。それ以降、私は父の制作現場に足を運んで、技術を見て学ぶことにしたんです。「私が学べば、その技術を誰かに伝えて残していくことができる」くらいの気持ちで。それまで女性のねぶた師なんていなかったし、最初は私自身がねぶた師になるなんて、いや、なれるなんてまったく考えていませんでした。

でも現場に通っているうちに、だんだんと「これは自分がやるしかないな」という気持ちになっていったんです。

▲ねぶた制作をする麻子さんとお父さまの北村隆さん 提供:北村麻子 撮影:成田恭平