今でこそ広く知られるようになった「発達障害」や「ADHD」という言葉。日本におけるその言葉の登場は、「発達障害」は1970年代、「ADHD」は1990年代後半。決して浅い歴史ではないが、まだまだ「新しい考え方」という認識は払しょくできない。漫画やドラマのテーマとしても扱われ、認知が広まる一方で、正しく理解していない人も多いのではないだろうか。
そんな社会を少しでも変えようと、「発達障害」や「ADHD」についての執筆・講演活動を精力的に行なっているひとがいる。エッセイスト、メディアパーソナリティの小島慶子さんだ。小島さんは1995年にTBSに入社し、多数のテレビ、ラジオ番組に出演。2010年に同社を退職したのち、タレント、エッセイスト、東京大学大学院情報学環客員研究員などその活躍は多岐にわたる。
小島さんは、幼少期から漠然とした「生きづらさ」を感じていたのだという。そして2018年、41歳で診断を受けた「ADHD」と、今どのように付き合っているのか。自身の半生を振り返りながら「ADHD」当事者としての生き方と、当事者以外の人も向き合うべき「望ましい理解」について話を伺った。
大人から求められる「子どもらしさ」と、自分の感覚のズレ
小島:はい。今日はなんでも聞いていただきたいと思っているのですが、話し始める前に1つ、前提をお話させてください。
私がこれからお話する、人間関係などでの困りごとは、すべてを「ADHD特性によるもの」で説明できるようなものではありません。そこには、家庭環境をはじめとしたさまざまな環境要因の影響があったり、その日の体調や気分も関係していたり。
人間ってとても複雑で、なにかの原因をすべて「ADHDだから」と片付けられるほど単純なものではないということを、まず読者の皆さんにも知っていただきたいなと思っています。
小島:幼稚園に上がる前くらいから、「どうもお友達との関係が難しいぞ」と感じるようになっていました。夢中で遊んで楽しくなってくると、自分が言ったこと、やったことで友達を怒らせてしまうことが多い。その結果、仲間外れにされてしまったりする。
「言い方が下手だったのかな」と後から考えることはありますけど、まだ子どもだったので自分の発言を点検するという習慣は当然ありません。「またやっちゃった。なんでうまくできないんだろう」「どうやら周りの子はもうちょっとうまくできているらしい。なんでだろう?」と落ち込むことがよくありました。
私には9歳上の姉がいるのですが、親にしたら長女と次女はずいぶん勝手が違う。すぐに不機嫌になったりひねくれたり、癇が強くて泣いたり嫌がったりする私に「なんで慶子はこうも育てにくいのか」と感じていたと思います。
小島:小さい頃、よく自宅に父の仕事関係の人を招くことがあって。そうするとお客さんが当時流行っていたお人形なんかをお土産で持ってきてくれるんですね。「ありがとう!」ともらっておけばいいんですが、私としては不本意。人形にまったく興味がなかったんです(笑)
大人が「さあどうぞ」と笑顔で差し出すおもちゃを素直に受け取らず、ふてくされたりしていましたね。それを見て、両親は気を揉んで、なぜ“子どもらしく喜ばないんだ”と。親が困惑するのも無理はありません。
今思えば、別に私が根性曲がりだったからではなくて、たまたまおもちゃの好みと感情表現の仕方が大多数の子どもとは違っていたということですよね。当時は、それを「子どもらしくない」「可愛げがない」と言ったのでしょう。もしかしたら、現在はADHDなど発達障害の診断名で説明されている特性が、当時は「親の躾が悪い」と非難されていたのかもしれません。親と子どもの双方にとって不幸だったと思います。
小島:強く印象に残っているのは「なんで普通にできないの?」かな。でも私は、何が普通かわからない。普通にしなくてはならないという意識もない。何を求められているのかがわからないから、大人に叱られるような言動を繰り返してしまう。やがて、叱りつける母に対して反感を抱くようになり、自分のことも大嫌いになり……。
「言うことを聞かない」「態度が悪い」は日常茶飯事でした。母からは「慶子の反抗期は3歳から始まった」と言われてましたから(笑)
小島:お調子者で楽しいことが大好きだったので、「面白い」や「変わってる」って言われると嬉しかったですね。褒められた!と感じるんです。気の合う子や大人が、私がふざけるのを笑ってくれると嬉しい。
大人に「かわいいね」って言われると「本当はそんなこと思ってないくせに!こどもをバカにするな!」という気持ちが脊髄反射で湧いてくるけど、「慶子ちゃん、変わってるね。面白いね」という言葉には素直に喜んでいました。