「なんでそんなこと言うんだろう」
「この人は意地悪で言っているのかな」

働いていて、そう思わざるを得ないような言葉をかけられたことはないだろうか。

以前の私は、仕事の場でそうした言葉を投げかけられてモヤっとしても、終業後に飲みに行ってストレスを発散し、翌日からは何もなかったことにしてまた粛々と働く、そんな日々を過ごしていた。

そんな私の価値観が大きく変わったのは、台湾の前デジタル大臣オードリー・タンさんを取材する中で彼女の「EQ(心の知能指数)」の高さに触れたのがきっかけだ。

何十時間も一緒に過ごしてきたけれど、コロナ禍のような緊迫した場面でも、オードリーさんがイライラしているのを見たことがない。インターネット上で人を罵り、煽るようなコメントを投稿する人々をネットの世界では「トロール(日本語の「荒らし」)」と呼ぶが、オードリーさんは「トロールを抱きしめるのが趣味」と話してくれたこともある。

「相手が100の言葉を放つうちの95が人格攻撃だったとしても、残りの5つの言葉だけを見ることにします。他は見えなかったことにして、礼儀を重んじて答えます。“適当なことを言っているうちは、相手の関心を引くことはできない。ではどんな態度で、どのような発言をすれば良いのか?” ということを学習してもらうのです。こうすれば、彼らも仲間になることができます」

ここまで規格外の寛大さを持つのは難しいかもしれないが、オードリーさんと時間を過ごしていると、0.001%でもいいから彼女の考えに近づきたくなるから不思議だ。

そのようにして私は「EQ」を意識し始めた。

「EQ」は30年前に米国の心理学者が提唱したのがきっかけで、知能指数「IQ」と対比する概念として世界各地で広がったといわれている。私が暮らす台湾では日常会話の頻出ワードとして一般的に普及している。

メディアから失礼な質問を受けた女優が鮮やかにそれをかわしていた時には「EQが高い!」という賞賛の言葉が飛び交うし、仕事でミスをした部下を人前で罵る上司がいたら、「感情をコントロールできていないEQの低い人」と判断されたりもする。

「EQとは何なのか」を見事に言い表した15歳のオードリーさんの言葉を紹介したい。

「自分を曲げず、それでいて人のことを困らせない方法がきっとある。みんなで一緒により良くやっていける方法がね」

自分の心を押し殺し、他者の言葉に傷付いてばかりいた私に勇気をくれた言葉だ。

こうしてEQの修行を始めた私は、仕事上の付き合いのある友人に気持ちを打ち明けたことがある。

「あなたのことをとても大切に思っているので、そういうことをされると傷付きます。このままだと距離をおいて付き合わなければ私の心が持たなくなると思って、伝えさせてもらいました」

勇気を振り絞ってこの気持ちを伝えた時、相手はとてもびっくりしていたけれど、「そうだったんだね」と受け止めてくれた。それ以来とても気を付けてくれるようになり、おかげで私はもっと相手のことを大切に思うようになった。

「大人なんだから、人間関係に波風立てない方がいいのではないか」と最後まで迷ったけれど、最終的に「この人とはこれからも仲良くしたい」という気持ちが上回り、自分の気持ちを曲げず、静かに伝えることができた。あそこで気持ちを押し殺していたら、結局いつかは付き合いを続けられなくなっていたと思う。

また、これまでだったら無理に飲み込んでしまっていたモヤモヤを言葉にして相手に伝えることで、史上最高に自分自身を大切にしてあげられたような幸福感に包まれたのは、意外な収穫だった。

だから、もし他者の言葉に傷付く癖のある人がいたら、知ってほしい。その言葉はあくまで他者のものであって、どう受け止めて対処するかは私たち自身が決められるということを。

こうして少しずつ自分のEQを育てていると、仕事や友人関係だけでなく、夫婦関係にも変化が起きた。結婚当初はケンカが絶えなかった夫とも、今はほとんどケンカをすることがなくなったのだ。

これまでの夫婦ゲンカのパターンは主に、私が「家事も子育ても仕事も、私ばかりがやっている」というイライラが募り、最終的に爆発する形で起こっていた。

そんなある日、台湾人の夫から、「僕は家事も子育てもやりたいと思っているけれど、何をどうやったらいいのか分からないだけだよ。教えてくれたらちゃんとやるよ。好きな人から責められたら、しょぼんとしちゃうよ」と言われ、ハッとした。

夫は私を辛くさせようと思っていたわけではないのに、私が勝手にイライラを募らせ、爆発していただけだった。本来であれば、ただ「これを一緒にやってほしい」と自分の気持ちを伝えるだけで良かったのに。

まだまだ修行中の身ではあるが、私も少しずつ「自分を曲げず、周囲とより良くやっていく」を実践し始めている。

近藤弥生子(台湾在住ノンフィクションライター)
1980年生まれ。東京の出版社で雑誌やウェブ媒体の編集に携わったのち、2011年に台湾に移住。日本語・繁体字中国語でのコンテンツ制作会社を設立。オードリー・タンからカルチャー、SDGs界隈まで、生活者目線で取材し続ける。近著に『心を守りチーム力を高める EQリーダーシップ』(日経BP)、『台湾はおばちゃんで回ってる?!』(だいわ文庫)、『オードリー・タンの思考』(ブックマン社)など。