仕事に求めるもの、それは千差万別だろう。お金、安定、肩書き……。そんななかで、「やりがい」を最優先し、30年のキャリアを手放した人がいる。内多勝康さんだ。

内多さんは1986年にNHKに入局し、いくつもの看板番組でアナウンサーやキャスターを務めてきた。しかし2016年、入局30年目にしてその座を降り、退職。次なる道として選んだのは、障害福祉の世界だった。

どうしてNHKを退職したのか。どうして異業種ともいえる世界を選んだのか。内多さんが歩んできた道のりを辿り、仕事における「やりがい」の手に入れ方について考えてみる。


本当は、アナウンサーにはなりたくなかった

内多:いや、そもそも、僕はアナウンサーを目指していたわけじゃなかったんですよ。本当はディレクターになりたかった。ただ、僕がNHKの採用試験を受けたとき、希望する職種を第1希望から第4希望まで提示する必要があって。第1希望にはもちろん「ディレクター」と書きましたが、第2希望以降が浮かばない。視力があまり良くなかったからカメラマンは難しいだろうし、記者はなんとなく大変そう……。迷った挙げ句、第2希望に「アナウンサー」と書いたんです。

そうしたら、人事担当者から「アナウンサーをやってみないか」と言われてしまって。即座に「嫌です」と断りましたよ(笑)。他の志望者とは違って、アナウンススクールにも通っていなかったし、特別なスキルを磨いていたわけでもなかったので。ところが、「アナウンサー採用でも、後からディレクターに転向できるよ」と提案されて、それならばやってみるか、と。

内多:そもそも欠員が出なかったらそう簡単には異動できないわけです。今と違い、定年までその会社に勤め上げる人も多い時代ですからね。何度かディレクターになりたいと異動希望を出しましたけど、叶うことはありませんでした。今思えば、人事担当者に一杯食わされたんですよ(笑)

内多:ええ。NHKのいいところは、たとえアナウンサーでも企画をどんどん提案できるところです。つまり、アナウンサーをやりながらディレクターのようなこともできる。それならばと思って、僕もたくさん企画を提案しました。振り返ってみれば、なかなか面白いアナウンサー人生を送らせてもらえたので、人事担当者には感謝しています。

内多:そうですね。とはいえ、もともと障害福祉への関心が高かったわけではありません。最初はなにも知らなかった。転機となったのは、アナウンサーとしての最初の配属地、高松放送局でのことです。そこで、高松ボランティア協会の事務局長を務める脳性麻痺の女性と出会いました。彼女と知り合って、障害福祉の世界を覗くようになると、そこに社会の歪みや課題がゴロゴロ転がっていることに気づいたんです。それから、障害福祉をテーマにした企画をどんどん提案するようになりました。

東京に配属されたときに企画したのは、川崎市で公務員として働いている、重い自閉症で知的障害のある男性を取り上げる番組。その男性とはなかなか会話も成立しないですし、最初は「どうやって公務員として働いているのだろうか……」と思っていました。でも、彼の職場である老人ホームでの様子を見てみると、驚くことばかりで。何百枚もの洗濯済みのタオルをキレイに畳んでいくんです。あるいは、お風呂掃除をしてみると、もう隅々まで完璧に磨き上げてしまう。要するに、自閉症の人というのはこだわりが強い部分があって、彼はその特性を活かしながら働いていましてね。おかげで他の職員も助かっている、と。

彼を取り上げたことで、僕のなかにある、障害というものへの見方や考え方が根底から覆されました。それまで、障害者というのはただ「助けてあげるべき存在」だと思っていた。でも、その男性のように「強み」を活かすことで、社会で活躍できるようになる。「障害による特性を活かす」という逆転の発想が、障害者の人生を180度変えることがあるのだと学びました。