鹿児島県の海沿いの田舎まち。輝く海でイルカが跳ねるのを眺めながら、彼女は育った。学生時代に抱いた「世界との懸け橋になる」という夢を叶え、航空会社のキャビンアテンダント、外航クルーズ客船の船員を経験し、現在はプルデンシャル生命でライフプランナーとして働く、宮島妙さん。

空と海から世界を感じ、多くのお客さまに笑顔を届け、そして送り出す仕事――。今でもその仕事について、「自分の原点となる素晴らしい経験だった」と胸を張る彼女が、次の“目的地”として選んだ、ライフプランナーという生き方。

宮島さんの旅は、どこから始まり、そしてどこに行き着くのだろうか。お客さまに「寄り添う側」の視点に今、寄り添ってみたい。



海の向こうに心を向かわせた、恩師の「言葉」

横浜港に停泊する、外航クルーズ客船「にっぽん丸」。品格漂う豪奢な外観と、その大きさに圧倒される。そこに、「お客さまに作っていただいたドレス」を着る宮島さんの姿があった。

この「にっぽん丸」こそが、宮島さんの “元職場”であり、海外に想いを馳せた学生時代に乗船した“想い出の船”でもある。

「新卒で日系の航空会社に入社して、キャビンアテンダントとして約5年ほど働いたのち、船乗りになりました。この『にっぽん丸』にも何度も乗船して、世界中を巡って……。とてもやりがいを感じていたし、今でも大好きな空間です」


キャビンアテンダントとして「空」、クルーズ船員で「海」にいたというイメージからか、「都会派っぽい」と言われることが多いという宮島さん。しかし、「都会派とは正反対。私はド田舎の出身なんですよ」 と笑った。

宮島さんの出身地は、鹿児島県の姶良市。学生時代は桜島を望む海沿いの道を、自転車で通学した。自然豊かな環境で大学まで過ごした彼女が、なぜ空や海の向こう……つまり世界に目を向けたのだろう。

その答えは、大学時代に乗船した「世界青年の船」と、その背中を押してくれた恩師の言葉にある。

「ずっと海外への憧れを持っていました。でも、私が中学生の頃に祖父が交通事故で半身不随になり、介護が必要になって。母は保育士の仕事を辞め、父も仕事をセーブするようになったことで、学費がかかる海外の大学への進学は断念……。でも心のどこかで、『いつかは海外に行ってみたい』という気持ちが捨てきれずにいました」

そんなとき、偶然目にしたのが、内閣府主催の『世界青年の船』の参加者を募集するポスターだった。「世界中から各国数名ずつの学生や社会人が集い、1か月半かけて世界を巡るクルーズです。私は運よく鹿児島県の代表として選ばれ、乗船することが決まりました」

当時の世界青年の船は、横浜から出向して、ロシア、ハワイ、トンガ、フィジー、ニュージーランド、シンガポールを周るという約1ヵ月半のクルーズ。つまり、1ヵ月半も大学を休むということになる。宮島さんの大学には、乗船の前例はなかった。宮島さんは悩み、担当教授に相談した。

「教授は、『この足で学長のところに行ってみなさい、たぶん応援してくださる』 とおっしゃった。だから、ドキドキしながらすぐに学長へ相談しに行きました」

緊張した面持ちで相談に来た宮島さんに、学長はこう答えたそうだ。

「あなたは国際言語文化学部の学生です。ずっと田舎にいるよりも、16ヵ国もの人と知り合えて、生きた学びが得られる場所に行ってきなさい」と。そして、学長は宮島さんに「あなたがそこで学んだことや、その経験を大学の皆に話す機会を作ること」という条件を提示した。

学長は、イギリスの名門であるケンブリッジ大学を卒業したシスター。世界を見て、最先端の学びの環境で過ごした彼女の言葉は、宮島さんに大きな勇気を与えた。

実際、乗船中は同乗する学生たちから強い刺激を受けたという宮島さん。

「海外の学生との交流はもちろんですが、同じ日本の学生たちも、語学・楽器の演奏・プレゼンテーションなど、それぞれに得意分野を持ち、物怖じせずに各国の代表者とコミュニケーションを取っていた。『学びたい』と強く願った同世代との出会いは、田舎育ちの私には刺激的でしたし、そうした環境に身を置くことで自然と、『日本と世界の懸け橋になりたい』と願うようになりました」

下船後、宮島さんは学長が課した、在校生へ向けての講演準備を始めた。しかし、同時期に、鹿児島と東京を何度も往復する就職活動と、卒業論文に追われることに……。あまりに目まぐるしい生活に、担当教授に弱音を吐いたこともある。

すると教授は、「妙、全部やり切れ。きっとできるから」 と言ったそうだ。

宮島さんは当時をこう振り返る。「今考えると、私の周りには私のことを信じて、『できるよ』と言ってくださる方が多かった。先生から『全部やり切れ』と言われて言い訳ができなくなり、結局一つも手を抜かずにやり切りました。あの時に投げ出さずに全てできたことが自分の自信になっていて、『あの時できたんだから、今度もきっとできる』と思えるのかなって。今でも何か大変なことがあると、頭の中で 『妙、全部やり切れ』 という教授の言葉が聞こえます」。教授の言葉は、宮島さんの人生の指針となっていた。

その後、宮島さんの母校では、『世界青年の船』への乗船が続いている。「鹿児島の後輩たちに世界に触れるための選択肢を示せたことは、やっぱりうれしい」 と言って、宮島さんは微笑んだ。