高層ビルをエレベーターで上がると、現れたのは緑溢れるあたたかな食堂。流行りのカフェのようにお洒落な空間の中央に設置された、20種類もの旬の野菜が並ぶサラダバーに目を奪われる。案内してくれたのは、今回のミモザなひと・世永亜実(よなが あみ)さんだ。

芸能プロダクションでレコードプロモーターとして勤めた後、バッグやジュエリーを手がけるサマンサタバサジャパンリミテッド社に入社。社長とともにPR部を立ち上げ、29歳でPR・マーケティング領域の役員に就任。数々のプロモーションを成功に導く手腕は、多くのメディアに取り上げられた。そして、40歳の節目にはパラレルワーカーとして新しいキャリアを踏み出している。

会社役員としての激務をこなしながらキャリアを築き、2児の母として育児にも励んできた世永さん。しかし予想に反して、我々取材チームを前に彼女が見せてくれたのは、人間味ある“弱さ” だった――。


世永亜実

株式会社GOOD NEWS取締役
オイシックス・ラ・大地 株式会社 BrandDirector/People's Adviser
大学卒業後、芸能プロダクション (株)アミューズ入社 レコードプロモーターを経験後2002年(株)サマンサタバサジャパンリミテッド入社、PRチームを立ち上げ、PRマーケティング領域の担当役員として数々のプロモーションを手掛ける。2019年に独立。様々な企業でのブランディングやマーケティングを行いパラレルワーカーとして新しい働き方を模索中。女性役員として多くのスタッフの育成にも携わった経験を基に、マネジメントの本も出版。 高校三年生の長男、中学二年生の娘を育てる2児の母。著書:『働く女性のやる気スイッチ 持てる力を120%引き出す並走型マネジメント』


毎朝涙した就活、涙の間に光が見えた新卒時代

世永:そうなんです。オープンは今年(2025年)の3月3日。じつはお話をもらったのは今年に入ってからで、結構急ピッチなプロジェクトでした(笑)

今こうして多くのお客さまに、「雨の日も、晴れの日も、なんだか気持ちが晴れない日も、笑顔になれる食堂」をご提供できているのがうれしいです。

世永:はい。オイシックス・ラ・大地では社長付という形でディレクションなどを行っていて、もうひとつ栃木県の那須にある、「バターのいとこ」という利活用のクラフトスイーツなどを展開する「GOOD NEWS」という会社で取締役を務めています。

……とお話すると、役職や経歴が一見華やかに見えるので、「パワフル」「芯が強い」などと思っていただくことが多いのですが、もしミモザマガジンの読者さんにもそう思われていたら、本当の私とは少しギャップがあるかもしれません。

私はたまたま世の中の流れより少し早く、20代で役員になったり、役員をやりながら子育てをしたり、パラレルキャリアの道を選んだりしてきました。でもそれはご縁があったからで、人から見える自分と本当の自分の差には、ずっと違和感があります。

世永:幼い頃からです。おとなしいはずなのに、周りからはそう思われない。気づいたら前に出る役割になっていることが多かったです。求められたからには頑張るのですが、内心では常に何かを心配していて……それは今も変わりませんね。

これは母から聞いた話なのですが、3歳の私はすでに、保育園のお友達のことも心配していたそうです。飲み物をこぼした子がいたら、ティッシュを取りに走ったりして。母は先生から「おうちで気を遣わせすぎていませんか」と聞かれたそうです(笑)。物心つく前から、いろんなことが目に入ってついつい心配しちゃう子だったんだと思います。

根がそんな性格なので、私が仕事でメディアに取り上げていただくと、母はいつも「心配性な亜実ちゃんがこんなに堂々と仕事しているのが不思議だわ」と感心しています。就職活動や新卒時代は涙を流してばかりだったので、余計にそう感じるのかもしれません。

世永:就職氷河期といわれる世代でしたし、私が志望していたのは倍率の高いエンターテインメント業界だったので、かなり厳しくて。たくさん不合格通知をもらって、人生であんなに否定された気持ちになったのは初めてでした。両親が「もう働かなくていいんじゃない」と心配するくらい、就活期間は毎朝泣いていましたね。

なんとか無事、芸能プロダクションに入社できたものの、ここでも試練が待っていました。新入社員研修中に、急に会長直下の新プロジェクトに参加することになって。所属アーティストを全国のラジオ局に売り込むプロモーターの仕事を任されました。同じ仕事の経験がある人は社内にいなくて、誰かに教わることもできないまま、できることを模索する日々でした。

世永:そうですね。なぜ新入社員のなかで私だけ新プロジェクトに?と聞いてみたところ、回答は「すごく積極的で、元気に働いてくれそうだったから」と。ここでもやはり、ギャップを感じました。

当時はずっと泣いていたけど、今となっては不思議なことに楽しかったことの方をたくさん思い出します。一生懸命にやっていると、ラジオ局のディレクターさんに顔を覚えていただき話しかけてもらえることもあって。私の考え方の原点である「一生懸命頑張れば見てもらえる」という部分は、新卒時代の経験が大きいです。

ところがプロモーターとして働いていたある日、突然プロジェクトがなくなると告げられました。「こんなに頑張っているのに、勝手に決められた」と当時の私は感じてしまい、悲しくて許せなかった。自分がみじめになり、飛び出すように辞めてしまいました。会社はそういった意思決定をしなければいけない時もありますよね。今でこそ役員として会社に関わる立場になったから理解できますが、若い私にはまだ理解できなかった。

そして辞めると決めたその日に、その後17年という長い時を過ごすサマンサタバサ社に出会いました。


40代でステージの変化。「果実」を実らせる役割から、「土」を耕す役割へ

世永:雨宿りをしようと入ったコンビニで手にした求人雑誌に、こんな文字を見つけたんです。

「履歴書なし、宣伝経験者、気軽に電話ください」

私にはこれしかないと思って連絡し、面接では「前職給与より1円でも安ければ入りません」なんて社長に啖呵を切って。

前職を辞めた自分に負けたくなかったし、転職するならステップアップしなきゃいけないという意地があったのだと思います。そしたら社長は「面白いね、言い値で払おう」と言ってくれた。引くに引けなくなって、「どんな仕事でもやってやる!」と決意して入社しました。

PR部を社長とふたりで立ち上げることからスタートし、PR部が大きくなって、役職について……
この頃の経験は、社会人としての私を大きく育ててくれたと感じています。

世永:もちろんありました。しかも役員就任のオファーをもらったのは一人目を出産して復帰するタイミング。上席執行役員のオファーも二人目出産後のタイミングだったので、プライベートの変化が伴うことへの不安も重なっていて。

でも、私は期待してもらえるなら120点を出したい性格なんです。それを社長にはしっかり読まれていましたね。いつも私が「もうこれ以上は無理かな、辞めようかな」と思ったタイミングで、その時の私の実力より少し高いハードルを目の前においてくれました。

世永:私は周りの方々に恵まれた仕事人生なんですよ。迷ったとき、先を歩く立場から助けてくれる人がいる。2019年からパラレルワーカーになって、オイシックスに参画しましたが、そこでも上司でありオイシックス代表取締役社長の高島さんに救われました。

オイシックスに参画した私は40代。オイシックスは成長中の会社で、自分より若い方々が多い。その中に飛び込む形でした。「ここで私はどんな成果を出せるだろう」と悩み、身動きが取れなくなってしまった時期もあって。そんな私に、高島さんは言いました。

「世永さんはもう赤いトマトを作る人にはならなくていいんだよ。赤いトマトをみんなが実らせられるように、いい土を耕してほしい。今はトマトを自分で実らせようとするから苦しいんじゃない?」と。

そこで私はやっと、これまでとは違うステージに自分が移っていたことに気づいて、もやもやが晴れました。私は何も貢献できていないと思っていたけど、周囲から期待されているものが変わっていたんだって。

言語化してもらったことで、自分がどう動けばいいかが明確になって楽になりました。自分がそうやって楽にしてもらった経験があるから、私が後輩から相談を受ける時も、その人の悩みを言語化して一緒に紐解くことを大切にしています。

執筆:紡 もえ 撮影:梶 礼哉