吉本ばなな

1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で第16回泉鏡花文学賞、89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で第39回芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で第2回山本周五郎賞、95年『アムリタ』で第5回紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』で第10回ドゥマゴ文学賞(安野光雅・選)、2022年『ミトンとふびん』で第58回谷崎潤一郎賞を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版されており、イタリアで93年スカンノ賞、96年フェンディッシメ文学賞<Under35>、99年マスケラダルジェント賞、2011年カプリ賞を受賞している。近著に『ヨシモトオノ』がある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。


 文芸評論家だった父は生涯とにかく読んで読んで、書いて書いて、ひたすらに自分の考えを極めていった人だった。
 海外に行くこともなく、友人や仲間との飲み会にもめったに行かず(若い頃はよく友と語り合っていたが、みな忙しくなって集まりもなくなったようだ)、どんな小さな規模の講演会でも、ほとんどギャランティが発生しなくても、「呼ばれたらなるべく行くようにしている」とだけ言い、講演のための巻紙みたいなものにひたすら大きな字で講義の内容を書いていた。当時はパワーポイントなどがなかったため、手書きで作っていたのだ。
 いや、もしかしたらパワーポイントが使えたとしても、父はきっと手書きを貫いたのではないかな、と思う。不器用な人だったから。
 生涯大学の教授やカルチャーセンターの講師になって定期収入を得ようとは決してせず、ずっとフリーランスのまま走り抜けた人生に悔いはなかっただろう、と感じている。
 目が見えなくなって本が読めなくなったとき、父はもういい、充分やった、と思ったのではないだろうか。

 父が亡くなったとき、私はとある海外の賞にノミネートされて、香港にいた。もういよいよだめかもしれない、明日までもたないかも、と姉から連絡があったとき、私はきれいなドレスを着て、家族といっしょにテーブルについていた。
 コースのおいしい料理が出て、出番が来たら朗読をして、スピーチをした。父が危篤であることは言わなかった。
 そこで受賞したらかっこよかったんだけれど、別の人が受賞した。でも、おめでとうと言われても、という気持ちだったから、正直ホッとした。韓国の人だったので、知っている唯一のおめでたい単語「チュッカドリムニダ(おめでとう)」を笑顔で伝えてすがすがしい気持ちになった。
 もちろん旅立つ前に病院に行き、もしかしたら最後かもしれないと思いながら父と挨拶は済ませていた。手を握り、話しかけ、待っていてね、と伝えた。
 だから悔いはなかったけれど、なぜ自分はこういう運命の中にいるのだろうとは思った。最愛の人が去っていきつつあるのに、海外にいるなんて。
 でも、なぜか後悔はなかった。むしろ式典に出たり取材を受けたり、背筋をちゃんと伸ばしているほうがただ嘆いているよりも父にとっていいような気がしていた。
 香港の風は甘くて、生暖かく、光はきれいだった。
 私は朝いちばんの飛行機に変更しようと手配を続けていた。でも、席が空いていなかったし、キャンセルもむつかしそうだった。それでも飛行機を探し続けていたとき、父が亡くなったという知らせが入った。
 ああ、病院でひとりで死なせてしまった、深夜だったから姉もつめていなかったし、母は入院中だし、私は香港にいて。
 なんだか父らしいな、と思った。自分のために仕事を削られたり日常を変えさせるのが嫌いな人だった。ひっそりと去りたかったのだろう。

 私は、仕事をしていてよかった、と思った。
 家族とスタッフがいっしょにいて、私は海外の人たちと文学やこれからの話をしていた。内心半泣きだったけれど、とても気が紛れたのも確かだ。
 父と同じ出版界で仕事をして、ただ小説だけに向き合って何十年も書いてきたから、仕事を通じて父は今も生きているように感じられる。
 仕事というのは、自分の顔を社会に向けているということだ。かといってたとえば無職の人や専業主婦が仕事をしていないということではない。社会に対してなにかしら自分のできることをすることは全てある意味仕事だ。毎日することはささやかでも、ひとりひとりが力を出し合えばそれがつもりつもって大きな力になる。たとえば立ち寄った店で感じよく挨拶をするだけでも、それが店の人を支える小さな力になるかもしれない。