“挑戦”という言葉に、どういう印象を持つだろうか。「すごい」? 「かっこいい」? はたまた「自分にはできない」?
今回の主人公であるプルデンシャル生命の石渡英敬(いしわた ひでたか)さんはこれまで、挫折と挑戦を繰り返してきた。新卒入社の会社で挫折して30歳で転職。36歳でマネージャーに挑戦して挫折。そして石渡さんは、ライフプランナーの最高位にまでなったあと、50歳になる2024年秋、再びマネージャーである営業所長に転身した。
心が折れてもすぐに立ちあがるような、とても強い人のように思える。でも石渡さんは「僕にとっての挑戦は高尚なものではなくて、“逃げ”だったりもするんですよ」と笑う。
“挑戦”が“逃げ”とはどういうことなのだろう。彼のこれまでと考え方を紐解いて、その言葉の意味を今一度考えてみたい。
社会人で味わった大きな挫折。順風満帆を壊した「正解のない日々」
神奈川県トップの進学校からストレートで東京大学へ。新卒で大手広告代理店に就職。そんなキラキラなプロフィールを持つ石渡さんに幼少期の思い出を聞くと、はにかみながら教えてくれた。
「中学2年生のころから、夏休みと年末は実家のスーパーマーケットの手伝いに駆り出されていました。お駄賃は“時給520円”。ネクタイを締めて売り場に立って、『いらっしゃいませ!あさりが2パックで100円ですよ!』なんて声をだして。……当時は思春期でしょ。人前で声を出すのが恥ずかしかったなあ(笑)」
生まれは神奈川県川崎市。祖父が戦前に八百屋を興し、戦後にそれをスーパーマーケットへと拡大。父が2代目を、石渡さんの兄がそのあとを継いだ。石渡さんと家族の思い出には、そのスーパーマーケットが欠かせない舞台といえる。
「9歳離れた兄からはすごく可愛がられていました。算数の問題を出してくれて、それが解けると50円のアイスを買ってくれるんです」
そうして幼い石渡さんは算数が好きになり、勉強が好きになり……。
「どのくらい勉強していたのかとよく聞かれますが、『歯を磨くように英単語を覚え、テレビゲームをするように数学をしていた』と答えています。勉強が好きだったし、やらないと気持ち悪い。そうしたら家族からお前は東大に行け、なんて言われるようになって。スーパーマーケットは兄が継ぐことになっていたので、じゃあ僕は数学を極めたいと東大を目指しました」
東京大学の合格発表のときにも温かな思い出がある。
「両親は僕よりも先に本郷キャンパスで僕の受験番号を発見していました。母が、後から来た僕に、交差点の向こうから『ひでたか~!番号あったよ~!』と大きく手を振ってきたんです。友達が一緒にいたし、18歳の少年としては恥ずかしくて恥ずかしくて(笑)」
大学ではラグビー部に所属し、その生活を楽しんだ。楽しみすぎて1年留年し、5年間通った。高校数学の教員免許も取ったものの、一度は企業勤めをしてみようと思い、国内トップの大手広告代理店へ入社。まさに前途洋々な社会人生活の始まり――ではなく、大きな挫折の始まりだった。
「大学受験や、ラグビーには練習方法があり、結果がハッキリと出る、“わかりやすい楽しさ”がありました。ですが、社会人になるとわかりやすい楽しさがない。すっきりとした正解がないし、終わりもない……」
新聞の広告効果について調査や検証をする仕事を担当していた石渡さん。さまざまなアプローチを繰り返すも、期待されるアウトプットがなかなか出せずに、苦しみ、もがく毎日だったと振り返る。
「入社3年目で、心療内科で薬をもらうほどに心を病んでしまいました。それでも生活のためには給料をもらいたいので会社にしがみついて。同期がどんどん結果を出し評価されていくなか、僕はメインの仕事から外され、そこそこの仕事をして17時に退勤する、そんな29歳でしたね」
そんなとき、プルデンシャル生命から“あやしい電話”がかかってきたのだ。
“うっかり”に導かれ、直感で飛び込んだライフプランナーの道
「石渡さんが優秀だと聞いて……」とかかってきた電話。「誰からそんなこと聞いたの?って感じですよね。その頃は仕事で結果が出せずにいたので、あやしいなと思ったんですが(笑)。なにせ時間に余裕があったので、電話をかけてきた営業所長と“うっかり”会う約束をしてしまいました」と石渡さんは冗談めかして語る。しかし、石渡さんは採用面接の中で出会った支社長に強く心を打たれたという。
――私たちのビジネスのベースは“愛”なんです。
「支社長はそう語りました。『愛』です。その方の話に論理や理屈はなかった。でもそれが論理や理屈で生きてきた僕には強烈なインパクトで、直感的に、このご縁は運命だと思いました。『ここで人生の荒療治をしよう!』『自分の限界にトライしてみよう!』、そう意気込んで転職を決めたんです」
ドラマチックな出会いから20年、石渡さんはプルデンシャルで研鑽を積んできた。入社11年目には、ライフプランナーの最高位である「エグゼクティブ・ライフプランナー」に。石渡さん自身がスーパーマーケットを経営する一家で育ったこともあり、経営者のブレーンとして事業承継や相続に関する問題解決を専門分野とし、2023年には経営者向けのビジネス書まで出版している。
石渡さんの落ち着いた、かつ論理的な話し方は、つい耳を傾けたくなるような印象と安心感を与える。ライフプランナーとして多くの顧客に選ばれ、信頼を得てきたというのも頷ける。しかし同じ口で、石渡さんはまた、最新の“うっかり”を披露した。
「2024年の春、もう一度管理職になろうかなと“うっかり”思ってしまって。50歳になるタイミングで手を挙げてみました。その半年後に、ライフプランナーの採用・育成を行う営業所長に職種変更したんです」
逃げたっていい。それを「挑戦」と呼べるように頑張ればいいだけ
「営業所長になってこの数カ月、とても楽しんでいますよ。実はもう、一緒に働きたいなと思う人を見つけたんですよ」。石渡さんは嬉しそうに話し始めた。
「沢山の方とお会いし、お話を聞く。ここは今までと変わりません。ただこれまでと違うのは、『その人のお金にまつわる悩みや課題の解決策を探す』のではなく、『その人の生き方、つまり人生を変える』お話をしているということです」
50歳までライフプランナーとして第一線を走り続けてきた人だ。このまま営業パーソンとして結果を残し続けることもできたはず。さらに言えば、ライフプランナーと営業所長の職務は全く違う。前者として成功したからといって後者として成功するとは限らない。
「周りには『やめておきなよ』とか、『50歳でそんな新しいことを始めなくても』なんてさんざん言われましたよ。でも、僕は『やろう』って“うっかり”決めてしまった。意思決定についてはロジカルに詰めるのではなく、“うっかり”とか直感とか、そういうのが大事だと思っているんですよ」
もちろん、葛藤はあった。慣れ親しんだライフプランナーから営業所長への職種変更は、社内で転職するようなものなのだから。
「春に決断してから、秋に着任するまで、本当にいいのかと迷う日もありました。でも“うっかり”決めたあとにじっくり考えてみてわかったんです。僕はライフプランナーとしての自分の成長に限界を感じていたんだなと。これは自分の伸びしろを求めての転身なんだ。そう言い聞かせて自分の背中を押しました」
50歳での挑戦――。
「でも、見方によってはやっぱり“逃げ”なんです」。石渡さんはそう言って苦笑いを浮かべる。「限界を感じたから、違うフィールドに逃げたとも言える。でもね、『逃げてもいいんだよ』と言いたい」
意外な言葉に、逃げてもいいんですか?と思わず聞くと、石渡さんは「いい」と大きく頷いた。
「それを“挑戦”と呼べるように頑張ればいいだけで。僕は前職から逃げました。でもそれを、『ライフプランナーへの挑戦』と言い換えることで僕は変わることができて、今日があります。逃げたっていいんですよ」
執筆:山口 真央 撮影:梶 礼哉 構成:プルデンシャル生命広報・ミモザマガジン編集部