「東大」から声をかけられたとき、潮目が変わったと感じた

上野:ええ、そうです。大学では社会学を専攻したけれど、つまらなくてね。学問の中に私の居場所はないと感じました。

それというのも、それまでの学問というものは、「いかに生きるか」を何百年にもわたって男性たちが考えてきた成果であって、男の男による男のためのものだった。だから、そこに私の居場所がないのは当然のことでした。それじゃあ勉強したってつまらないから、何度も大学院を中退しようって思いましたよ。

でもね、そうしているうちに「女性学」と出合ったの。当時の「女性学」はまだ学問として認められず、大学の外で育まれていた民間学のようなものでした。

上野:目から鱗が落ちた思いでした。「自分自身を研究対象にしてもいいんだ!」って。

当時は「学問というものは客観的かつ中立的でなければならない」と言われていて、女が女を研究するなんて学問にならないと見なされていた。でも、客観的に書かれたという男による女性論とかを読んでみると、もう妄想の塊で。「冗談じゃねぇよ」って(笑)。女が何を経験し、何を感じるか、男に教えられたくないよ、って。

学問にも“ベンチャー”というものがあって、成長する学問と衰退する学問があります。女性学は新しく勃興する学問でしたが、学問の世界で市民権を得るのは一筋縄ではいきませんでした。“おじさんたち”からは「それって学問ですか?」と軽んじられて、悔し泣きすることもあった。それでも、好奇心と、社会の不公正に対する怒りに突き動かされて、抵抗勢力と必死に闘いながら、一歩ずつ理論と実証を積み重ねて、ひとつの学問分野として認めさせてきました。

そもそも学問というのは、先人たちの研究を後進が批判して乗り越えることで発展していくものです。だから私も、それまでの男性による学問のジェンダーバイアスを批判してきましたし、女性学の研究者のあいだでもたくさんの論争をしてきました。もしもいま、私がやってきたことを批判されたとしても当然のことだと思います。どんな研究にも時代の限界というものがありますから。

上野:折れることはありませんでした。悔しいことは数えきれないほどいっぱいあったけれど、仲間がいたし、理は自分にあると確信できたから。それに逆風を受けると元気が出るタイプなのよ。「きた、きた、やるぞー!」って(笑)

こういうと、「上野さんは打たれ強いんですね」なんて言われます。でもね、考えてみてほしい。好きで打たれ強くなる人なんていると思う? 生まれた時から打たれ強い赤ん坊なんかいる?人生のなかでたくさん火の粉がふりかかってきて、それを跳ね除けるために打たれ強くなっていっただけ。

上野:メディアに出るようになったのは30代になってからですね。私のデビュー作は『セクシィ・ギャルの大研究』というタイトルでした。コマーシャルに登場する女性のポーズをビジュアル的に分析して、どんなポーズをするとセクシーだと評価されるのか論じた内容です。これがもう、タイトルからして大顰蹙を買ってね。

当時、女子短大の教壇に立っていたので、学生の親から「あんな破廉恥なことを研究する女を教壇に立たせるなんて何事か!」と抗議が来たり。でも、女子学生からは好評でした。「先生、どないしたら男にウケるか、よぉわかったわぁ」なんて言ってくれて(笑)

上野:それはなんと言っても、東京大学(以下 東大)からお声がかかったことでしょうね。あの大学は純粋培養率が高くて、“自社製品”、つまり東大出身の人材を優先採用するという傾向がありました。でも私は東大出身者じゃない。だから教員として声がかかったときは青天の霹靂でした。

それまでの私は下ネタを論じる”札付きのフェミニスト”というレッテルを貼られていましたから、そんな規格外れなことをしてきた私に、東大というエスタブリッシュメントからお声がかかった。すると「東大のお墨付き」と見られるようになって、教育委員会からも講演依頼が来るようになって。「子どもたちに話を聞かせていい人」と認定してもらえたんでしょうね(笑)