誰がはじめにたとえたのか、人生に時折訪れる試練を「壁」と呼ぶことがある。その壁の前に人は立ちすくみ、悩み、時には心が折れそうになることもあるだろう。

「でも、諦めなければ越えられない壁はないはずです」――。

まっすぐに前を見つめ、彼女は言った。そう、彼女こそ「壁と向き合い続けてきた」ひと。東京オリンピック スポーツクライミング女子複合・銅メダリストであり、現在はプロフリークライマーとして活躍する野口啓代さんだ。

今回、野口さんは全世界のプルデンシャル・グループによるグローバルキャンペーンの動画に出演。長野県と山梨県の県境にある小川山の崖を登る果敢な姿を通して、「Resilience(諦めない心)」を体現している。

長年日本のクライミング界をけん引してきた彼女は、32歳で現役を引退した。「まだまだやれる」と評されながら、引退を決意したのはなぜだったのか。そこには4度もワールドチャンピオンに輝いた、“クライミングの女王”としてのプライドとその先の未来への想いがあった――。


プルデンシャル・グループ グローバルキャンペーン
「This is My Climb」野口啓代 -夢を諦める選択肢はない - YouTube

This is My Climb(RESILIENCE)

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好きでやっていたら、人生になっていた。それが私のクライミング

野口:私の実家は茨城県で牧場を経営していて、比較的広い土地がありました。小学生の頃にクライミングと出会い、あまりにものめりこむ私を見て、中学生のときに父が6畳の部屋に小さな“岩壁”を作ってくれて。それが私のクライミング人生の転機です。いつの間にかその岩壁が、大きく、広く、高く育っていきました(笑)

野口:家族旅行で訪れたグアムのゲームセンターのようなところに、クライミング体験施設があったんです。日本ではまだクライミングが浸透していない頃でしたから、もちろんどんなスポーツかも知らなかった。試しに父と妹と私の3人で遊んでみたら、もう3人ともハマってしまって。

旅行から帰ってきてもその興奮は冷めませんでした。
当時一番近いクライミング場だった東京の錦糸町まで、実家のある茨城県龍ヶ崎市から数時間かけて毎週のように通っていましたね。ほどなくして、つくば市にクライミングジムがオープンしてからは、さらにのめりこんでいったんです。

▲野口さんのご自宅の練習場にて

野口:みなさん「全日本ユース優勝」という文字を見て、とんでもなくすごいことだ!と思ってくださるみたいなんですが……。これは良くも悪くも、クライミング人口の少なさゆえの結果のようにも感じています。

今は、日本国内に600ヵ所以上のクライミング施設がありますが、私が始めたころはまだ20ヵ所程度もなかったくらい。だから、日常的にトレーニングをしている選手もほとんどいませんでした。小学生の頃から中高生の部に出場していたのも、同年代の選手がいなくて小学生の部を“開催できなかった”からなんです。

それに私自身、昔はスポーツが苦手でした。妹のほうがなんでも器用にこなすタイプで、クライミングも妹のほうが上手だったくらい。けれど、「私は本番に強いタイプ」らしくて。練習では登れなかった壁も、本番なら登れるということがよくあったんですよね。

野口:うーん、なんでだろう……。決勝まで進むと、会場全体が私に注目してくれるのがうれしかったし、優勝すれば父もたくさん褒めてくれるし。そんな小さな“うれしい”が積み重なっていくことで、本番への集中力が養われていたのかもしれません。

「勝ちたい」という気持ちは強かったですが、「大会で優勝するために頑張らなくちゃ!」と思い詰めていたわけではなくて。とにかくクライミングが楽しくて仕方なかっただけなんです。

▲ご自宅のトレーニングルーム

現役時代は、まずは1時間程度のストレッチとウエイトトレーニング。その後は6~7時間くらいクライミングの練習をしていましたね。とにかく楽しくてしょうがないから練習する。それが自分の力になっていくから、たとえ練習ではできなくても、大会では自分でも驚くような力が出せたりしていたのかな。

今でも、クライミングが楽しくてしょうがない。遊びながら楽しんでいたものが、いつのまにか人生になっていたんですよね。


「一番強いまま、終える」。世界女王の覚悟

野口:2008年に日本人として初めてワールドカップで優勝し、翌年には年間総合優勝することができました。

私がクライミングを始めた頃は、「日本人はクライミングに向いていない」、「試合をしても勝てない」と言われていたんです。

だから、初めて世界の頂点に立てたときの気持ちは格別でしたし、プロのクライマーとして歩んでいこうと心を決められました。これは、もちろん私一人の力ではなく、サポートしてくださる方々があっての結果です。

野口:はい。私自身、東京オリンピックの招致活動に携わり、IOC(国際オリンピック委員会)へ向けたプレゼンでも手ごたえがありました。そして無事にクライミング競技はオリンピック種目に採用。一方で、「自分は出場を目指すべきか……」ととても悩みました。

当時の私は世界ランキング1位でしたが、競技生活において初めて足に大きな怪我をしてしまったんです。怪我からの乗り越え方も分からず、先も見えなかった。その時点で、私は26歳。東京オリンピックを迎える頃は31歳になっている。「強いままの自分でいられるの?」「 挑戦する覚悟ができるの?」 自分の中での葛藤が続きました。

それまでにも大きな世界大会には出場してきましたが、オリンピックは特別な場所です。最終的には、どんな舞台なのか知りたい、経験したい、挑戦したいという自分の気持ちに従うことにしました。「オリンピックまでは何としても頑張る」、そしてそれを「現役最後の舞台にする」と、この時点で決めたんです。

▲オリンピックに出場する野口さんに寄せられた応援メッセージ。今もトレーニングルームに飾られている

野口:スポーツクライミングはまだ新しい競技だから、いわゆる「ロールモデル」が少ないんです。海外選手でも、30歳を超えて活躍している選手はほとんどいません。だから、「自分が30歳を超えても強いままでいられる」というイメージを持てませんでした。

ほかの競技では、体力の衰えを感じるまで現役を続けて引退する選手もいますよね。それはそれで正解だし、最後まで現役を貫き通す姿はカッコいいと思います。けれど、その姿を自分に置き換えて想像することはできませんでした。だから、「一番強い野口啓代のままで終わりたい」と思った。
そう考えたとき、東京オリンピックは現役選手としての“最後の場”に相応しい舞台だなとしっくりきたんです。

野口:そうですね、銅メダルという結果に対しては、シンプルな感情ではありませんでした。
金メダルが取れなくて悔しいという気持ちはもちろんありましたが、長い競技生活に終止符が打てた安堵感もあって。こればかりは、一言では表せません。

でも、「銅だったから次のパリオリンピックを目指そう」と考えたことは、これまでに1度もないんです。結局、「次も頑張ります」と言い続けてしまったら、どこまでも続けてしまう。東京オリンピックでの銅メダルは、自分が考えて決断し、努力してきた結果だから。これに対して、「でも」とか「やっぱり」という感情はありませんね。


大切なことは全てクライミングから学んだ。だから恩返しがしたい。

野口:まずはクライミングへの恩返しがしたくて。私は、人として大切なものはすべてクライミングから教わったと思っているんです。「人に助けてもらって感謝する」こと、「苦手を克服する」こと、「諦めない」こと、そして「挑戦を続ける」こと。

クライミングって、自ら手を離したら落ちてしまう競技、つまり諦めたら終わってしまう競技。だから諦めない心が何よりも大切です。

「日本人はクライミングに向かないないし、勝てない」と言われていた頃も、私は決して諦めたくなかった。“諦めなかったものだけが到達できる場所” に足をかけられたとき、自分への誇りが生まれるし、たくさんの人から祝ってもらえる。それがまた頑張ろうという原動力になりました。

温かい声援を送ってくださった皆さんに、感謝の気持ちをお返ししたい。そんな気持ちで今はクライミングの普及活動をしています。

▲子どもにクライミングを教える野口さん(ご本人提供)

野口:教えるってすごく難しくて、試行錯誤していますね(笑)。でも「クライミングはすべて自己責任」、これだけは必ず伝えています。

クライミングはチームスポーツでも、対人スポーツでもないから、「チームの連携がとれていなかった」「相手が強かった」は通用しません。努力したことも、足りなかったことも、すべて自分に返ってきます。だからこそ、すごく面白いし難しい。自分一人で考えて何度もトライして、力をつけるしかないんです。

だから極力「教える」ときは、答えを言わないようにしています。「ここに足をかけたらいいよ」「ここを掴んだら登れるよ」と、教えて登らせてしまうのは簡単です。だけど、それでは選手のためにならない。試合では、与えられた「壁」という課題に対して、たった一人で攻略方法を見つける必要があります。つまり、自分で考えられる力を身に付けられるように指導する必要がある。
だから今は「クライミングの楽しさ」を知ってもらいつつ、「考える力」を身に付ける大切さも伝えていきたいです。

野口:これは「教え合い」というより、意見交換かな。私たちは心からクライミングが好きで、自分だけの成功体験や価値観を持っています。意見が合う部分もあれば、お互いに譲れないこともあるんです。だから、クライミングのことになると言い合いになるのは結構日常茶飯事で(笑)

でも、「あの課題ってどうやって登った?」「今日どういう練習した?調子どう?」。気を遣わずそんな話ができる人が一番近くにいてくれることに、とても感謝しています。

野口:はい。初めての妊娠、初めての出産、初めての育児……そして仕事との両立。

身体ももちろん変化しましたし、時間の使い方も変わりましたね。そして、現役中とは全く違う種類の感謝や、家族のサポートの有難さを感じているのが私の子育てです。

今は仕事があるときには実家の両親や、夫の両親が娘の面倒を見てくれています。こうしたサポートがあることで、私と夫は自分らしく壁に向き合っていられる。自分ひとりではきっと挑戦できていないものだと思います。


壁の乗り越えかたは、ひとそれぞれ。自分らしいスタイルで向き合えばいい

野口:まさに、クライミングは壁を乗り越えるために挑戦するスポーツですよね。そして、越えられない壁はありません。自分の目の前に立ちはだかる壁を、パッと見て「無理だよ」と感じてしまうかもしれない。でも、逃げてしまっても、目を背けてしまったとしても、いつかは必ず同じ壁に向き合う時がきます。

クライミングって、同じ壁でも選手によって登り方が全く違うんです。柔軟性を使う選手、長身とリーチの長さを活かす選手、身体の軽さを使って離れた岩を掴む選手、大胆なテクニックを使う選手などさまざまです。そして、そのどれもが正解で、「この登り方をしなかったから失格」ということはありません。

きっと、人生における「壁」も同じなのではないでしょうか。ある人はテクニックで解決する、誰かの力を借りる、一度離れてからもう一度見つめなおしてみる……。時間のかけ方も違うと思います。何日かでクリアできるかもしれないし、何年もかかるかもしれない。それでも、自分に合ったやり方、ペースを見つけることが大事なんだと思います。

自分らしい「壁との向き合い方」を知ることで、乗り越えるためのきっかけをつかめるはずだし、その経験が自分の糧になっていくはずです。

……例えばこんな小さなきっかけ(岩)でも、ちゃんと掴むことができたら、さらに上に登ることができるんですよね。

野口:スポーツクライミングの壁は一期一会です。課題として与えられたその岩に対しての攻略方法を、その場でシミュレーションしトライする。

対して、外岩(山や崖など)はいつも同じ表情を見せてくれます。いつ挑戦しても同じ岩肌ですから、自分の力の定点観測ができるんです。私自身、以前は外岩が怖くて挑戦できない時期もありました。でもその外岩に対して、クライミングのトレーニングを積み重ねたことでなんとか登れるようになり、さらに数年経ったら簡単に登れるようになった、もっと頑張ったら短い時間で登れたということも経験しました。

クライミングの壁も、人生の壁も、まずは自分の場所(実力)を知ること、努力すること、そしてチャンスはちゃんと掴むこと。それが壁を乗り越えるヒントなのかなと思います。

野口:私がクライミングを始めたころと比較すると、「どんなスポーツか」を説明する必要がないくらい、クライミングは普及してきています。でも一時的な人気にとどまらず、この流れに乗って、もっともっとメジャーなスポーツにしていきたいんです。

私にとっての自分らしさとは、「わくわくしたり、心が躍ること」を続けること。だから、今でもとことん好きで、楽しくて、面白いと思えるクライミングに携わることが「私らしい生き方」につながるのかなって。

今の私は、世界で唯一「オリンピックで引退したクライミング選手」なんです。現役時代はクライミングの第一人者と言っていただけた。だから今度は、選手が引退した後の活躍の場を作ることに対する第一人者になりたい。

みんな、自分にしかできないことがあるはずです。だから私も、これからもたくさんの「壁」に向かって進んでいきます。

野口啓代

小学5年生の時にグアムでフリークライミングに出会う。クライミングを初めてわずか1年で全日本ユースを制覇。その後数々の国内外の大会で結果を残し、2008年ボルダリング ワールドカップで日本人初の優勝。翌2009年にはボルダリングW杯年間総合優勝を果たす。2010年、2014年、2015年と3度年間総合優勝という快挙を果たし、ワールドカップ優勝も通算21勝を数える。2018年にはコンバインドジャパンカップ、アジア競技大会で金メダルを獲得。2019年世界選手権で2位。自身の集大成として臨んだ東京2020オリンピックでは銅メダルを獲得し、現役を引退。プロクライマーとなったのち、2022年に、自身の活動基盤となるAkiyo’s Companyを設立、クライミングの普及に尽力する。他にも「Mind Control」(8c+)、「TheMandara」(V12)を凌駕するような外岩の活動も行う。

取材・執筆:山口真央
写真:梶礼哉