医療系のドラマや映画でたびたび取り上げられる「救命救急」の世界。常に素早く、適確な医療処置が求められる過酷な現場は、“戦場”とも呼べるのかもしれない。そしてその戦場での戦いは、テレビの中の物語ではなく今も現実に繰り広げられている。

プルデンシャル生命のライフプランナーである佐野水紀さんは、都内の大学病院の「高度救命救急センター」で、看護師として働いていた過去を持つ。

「毎日がテレビドラマの『コードブルー』の世界。救えなかった命も数えきれないほど目にしました。でも、救える命をできる限り救いたい。看護師としてやりがいも責任感も持っていました」

そう語る佐野さんは、なぜライフプランナーという第二の道を選んだのか。そして、彼女が「ライフプランナーとして覚悟を持つことができた」と語る、忘れられない出来事とは――。

前編:救えた命、救えなかった命。命の尊さを胸に看護師からライフプランナーへ(←今回の記事はココ!) 
後編:初めての“保険金支払い”の経験。叔母と交わした約束

一刻一秒を争う世界で感じていた、やりがいと責任感

――救命救急配属、佐野水紀。

看護師としての初期研修を終えた佐野さんに、配属先の辞令が下った。名前が呼ばれた瞬間、佐野さんの顔は青ざめ全身から血の気が引いたという。心の準備ができていなかったからだ。

佐野さんは「より患者さんと近く、たくさん話をできるところで働きたい」と、消化器外科や脳外科などの一般病棟を希望していた。「まさかここに決まることはないだろう」という軽い気持ちで、第四希望として救命救急を選んでいたのだ。

「やっていけるのだろうか」という不安な気持ちを抱えつつ、覚悟を決めて救命の世界に飛び込んだ佐野さんを待っていたのは、想像を絶するような“命の現場”だった。


「人間の脚ってね、すっごく重いんですよ」――。

このインタビューにおいて最も衝撃を受けた発言だ。佐野さんに、強く記憶に残っている患者さんはいますか、と話を伺っていたときのこと。

「まだ救命に配属されて間もない頃でした。電車にはねられ、すでに片足が太ももから吹き飛んでいる大学生の男の子が運ばれてきたんです。人工呼吸器がつけられた彼の横に、大きな“何か”が置いてあって。それが彼の脚でした。ストレッチャーで処置室へ運ばれていく後ろから、私はその大きくて重い脚をかかえて必死で追いかけていったんです」

救命救急でやっていくための覚悟を持つきっかけとなった患者さんだった。その後一命を取り留め、車いすで生活ができるようになったそうだ。

「救命救急センターに運ばれてくる患者さんは、交通事故、自殺未遂、病気……いろんな理由がありますが、その多くが人工呼吸器をつけた状態の患者さん。処置室では一刻一秒を争い、少しのミスが命を奪ってしまう。でも、そういう世界だからこそ責任感もやりがいも持ってやっていましたし、経験を積んでからは後輩への指導だって常に本気でした。後輩たちからは怖がられていたかもしれない(笑)」

明るく、さばさばとした性格の佐野さん。そもそもなぜ看護師を目指したのだろうか。

▲看護師時代の同僚との一枚


激務の救命救急でも、看護師だからこそできることを忘れたくなかった

佐野さんが看護師を目指したのは、意外にも「やりたいことがなかった」からだという。高校卒業後、進路を迷っていた佐野さんに、ご両親が手に職をつけることを進めたのがきっかけとなった。

▲佐野さんと看護師になるきっかけをくれたお母さま

「母は介護士なんです。職業上、看護師さんと接することも多く、『看護師はどう?』と。それまでも、母の助言を素直に受け入れることで、結構いい人生を歩めてきたと感じていました。小さなことだと、例えば服を選ぶときも母が『こっちのほうが似合うよ』と勧めてくれた服を買うと、周りから褒めてもらえたり。性格も母と似ているんです。だから看護師もやってみようかなって。そんな単純な考えで看護大学に進学しました」

看護師として研修を受けている頃は、患者さんとたくさん会話をすることで、辛い入院生活を少しでも快適にするお手伝いがしたいと思っていた佐野さん。

しかし、配属された救命救急には会話ができるほど余裕のある患者さんは運ばれてこない。重篤患者のみを担当する救命救急の看護師の仕事は、ほとんどが治療であり、処置だ。点滴を変えたり薬を配ったり、患者さんと会話ができる一般病棟の看護師とは仕事内容が違った。

「でも私は看護師ですから、どんな状況であれ患者さんの気持ちを汲み取ることが仕事だよなって。新人の頃は必死でしたが、数年が経過してこなせる処置が増えてくると、少しだけ余裕が出てくる。短い間しか担当できないけれど、髪の毛を洗ってあげよう、話ができない状況なら文字盤を使って患者さんの気持ちを聞いてみよう……。『何かできることはあるか、何をしてあげたら早く退院できるか、少しでも気分が良くなるか』を考えたいと思いました」


佐野さんが考える「看護師としての在り方」は、実際のエピソードからもうかがえる。トラックにはねられて運ばれてきたという、小学校低学年の男の子の話だ。

「夏の暑い日でした。肝臓、膵臓などの内臓破裂で運ばれてきて、極度の貧血状態。いつ亡くなってもおかしくない状況でした。大量の輸血と幾度かの手術で一命は取り留めたものの、安心できない状況が続いていて……。男の子のご両親は毎日お見舞いにいらしていたのですが、ある日、甚平を持ってきてくださっていた。それに気づいたので、次の日、甚平に着替えさせた姿をご両親に見てもらったんです。ご両親は泣いていました。『本当にありがとうございます』と。治療や処置に忙しい日々にあっても、患者さんやご家族の気持ちに寄り添うことを忘れてはいけないんだと実感しましたね」


キャリアに悩む自分に、新しい選択肢をくれた営業所長との出会い

▲佐野さんと、佐野さんを採用した営業所長の柴竜也さん

佐野さんには「感謝している」人物がいる。それは、佐野さんが所属する営業所の営業所長、柴竜也さんだ。

柴さんは佐野さんとのファーストコンタクトをこう振り返る。

「佐野と初めて会う数ヵ月前に、彼女の大学の同期を僕の営業所にライフプランナーとして採用していました。で、そのライフプランナーが彼女に保険の話をしにいくというので、バックアップのために付いていったら……まぁ面白い女性がいるなと(笑)」

ちょうどそのころ、そろそろ違う病院で経験を積むべきかと、転職ならぬ『転院』を考えていた佐野さん。ファーストコンタクト時にかけられた「キャリアアップについて考えてみたら?」という柴さんの言葉に興味を持った。数回食事を重ねるうち、いつの間にか佐野さんの方から『プルデンシャル、入社したいです!』と言っていたそうだ。なぜ佐野さんの気持ちが変わったのだろうか。

柴さんは言う。「保険業界が医療業界と似ているのは『命と向き合う』という部分だと思います。彼女はその意識が人一倍強かったし、ハードな環境でもひとつの場所で頑張れる人なんだなと感じました。だから彼女に、『ライフプランナーは使命感を持てる仕事だし、向いていると思うよ』と伝えたんです」

今のままの自分でよいのか悩む佐野さんの背中を、柴さんはそっと押していた。


置かれた場所で頑張るしかなかった幼少期。それが自分の強みになった

▲幼少期の佐野さん

柴さんが佐野さんを見て感じた「ひとつの場所で頑張れる」という強みは、佐野さんの幼少期に原点がありそうだ。

「私は、父の仕事の関係でいわゆる“転勤族”の家庭で育ちました。引っ越しばかりで、小学校は3回変わりました。転校して1ヵ月で修学旅行なんてことも。友達付き合いもうまくいかず、いじめにあったこともあります。習い事などを始めてもすぐに引っ越しになるので、幼少期からなにかに打ち込んだ経験もないんです。でも、『置かれた環境で頑張る』ことは得意になりました。だから救命救急でもやっていけたのだと思います。柴さんは、私のそういう部分に気づいてくれたのかもしれません」

佐野さんはまだ新人だが、柴さんが予想した通り、持ち前の明るさと前向きな性格を活かしてライフプランナーとしての仕事を立ち上げつつある。社内で最も大きなコンテストの基準を2年連続で達成するなど、実績も挙げられるようになった。

「以前の私は、看護師として生きていくしかないと思っていました。仕事には誇りを持っていたし、看護師以外の道を探したこともなかった。でも、がむしゃらに経験を積む時期を過ぎて、ここからどうやってキャリアを築けばいいのだろう……と悩んでいたんです。そんなとき、柴さんが私の人生に選択肢を与えてくれた。あのとき出会わなかったら、私は今ここにいない。普段は照れ臭くて言えませんが、柴さんにはとても感謝しています」


インタビュー・執筆:山口 真央
写真:梶 礼哉