話し手の発言とほぼ同時に、他言語へと訳して伝える、「同時通訳者」という仕事。他言語を操れるだけでなく、「聞く」と「話す」を同時に行なう瞬発力や、専門性の高い語彙力、言語の壁を超える表現力など幅広いスキルを要する。

今回は、ダライ・ラマ14世、アル・ゴア元アメリカ副大統領など世界の著名人の通訳を務め、重要な国際会議の場で活躍、経営者としての顔も持つ、同時通訳者の関谷英里子さんにお話を伺った。関谷さんは6〜9歳までをイギリスで過ごし、高校時代には自らの意思で海外留学を経験。慶應義塾大学経済学部へ進学し、卒業後は伊藤忠商事、日本ロレアルといったグローバルな大企業に務め、そののち自身で通訳会社を設立……と、目が眩みそうなほどの華々しい経歴を持つ。

しかし、関谷さんのこれらの経歴の裏には、私たちと同じように悩み葛藤する姿と、ご本人も「やりすぎですよね」と苦笑いするほどの地道な努力があった。「いきなり大きな一歩ではなく、小さなことから始めたらいいと思います」と話す関谷さん。

「やりたいことはあるのに、なかなか踏み出せない」「やりたいことが見つからない」――。そんな方へ、関谷さんの言葉がそっと寄り添い、やさしく背中を押してくれるかもしれない。


大企業勤務から、起業。思いがけず“同時通訳者”の道へ

関谷:私は幼少期をイギリスで過ごしました。渡英してからは英語の猛勉強が、帰国してからは英語力を維持するための勉強に加えて、日本語の勉強も必要だったんです。正直とても大変でした。

9歳で帰国をして日本の小学校に入った時、「港」という漢字がどうしても書けなくて。まずどこから書き始めたらいいのか分からず、ものすごいショックを受けたのを今でも覚えています。そこから日本語も一生懸命勉強しました。

高校生の時には、「もっと自分を追い込む環境じゃないと頑張れない」と感じ、英語力強化のために自ら一年間の留学を決めました。さらに通訳者になってから二度目の留学を経験しています。常に、言語について考え続けているような人生ですね。

現在は通訳者としても活動していますが、はじめは「通訳会社の経営」をしたくて起業したんです。前職で通訳者と関わっていた経験もあり、「通訳って世に必要とされているビジネスだ」と思ったし、前提として会社を経営してみたいとも思っていた。だから最初は、私自身が通訳者になるとは思っていなかったんですよね。

関谷:実際に現場に出てクライアントの声や満足度を直接聞いてみたいと思うようになったんです。あとは派遣できる通訳者がいない時に自分が現場に立てたら、クライアントの希望にも応えられるし、自社にとってはコスト削減にもなるなと。いざという時のリスクヘッジですね(笑)

もう一つは、起業したばかりで何も実績がないうちは、仕事のオファーをいただけないだろうと考えたこと。会社員とは異なり、起業後の経営者は自分が動かないと仕事が無いも同然なんです。だから会社が軌道に乗るまでは、前職の経験を強みとして伝えたり、本を出版してみたり、専門性を高めたりして、「どうしたら信頼してもらえるか」を必死に考えました。そういった下準備を積み重ねていたんです。

その中で「自分はこういう想いで通訳会社を経営しています。この分野に詳しい通訳者を揃えています」に加えて、「私自身も通訳者です」と言えると、やっぱり説得力がありますよね。

その甲斐あってか、ご依頼が増えたり、ひとつの現場が次の受注に繋がったりと、いい方向に回っていきました。


自分が現場に立ち、変わったこと、生まれた想い

関谷:話し手の「思いや信条」を大切にします。というのも、英語と日本語の言葉の意味って決して1:1ではない。「check」だけでも、「確認します」「チェックします」「見ておきます」といろいろなニュアンスがありますよね。英語も同じなんです。話し手の発言に応じた言葉をその瞬間で選び、適切に伝えるのは、大切にしたいところでもあり、難しいところでもあります。

関谷:聞き手に「まるで吹き替えのようだった」と思ってもらうために、話し手とのタイミングのズレが生じないように心がけています。

とはいえ、ぴったり同じタイミングでは通訳できませんし、通訳する側としては、言い切れなかったことを言うために、話し手が考えたり息をついたりしてできる「間」にどうしても話したくなるものなんです。でも私は、むしろその「間」を大切にしていて。話し手が話を区切った時には、私も沈黙し、また話し始めれば私も再開するんです。そうすると話し手と呼吸が合ってくる。

他には、たとえ聞き手から私が見えない場面でも、話し手と同じように身振り手振りを付けます。言葉だけじゃなくて、表情・気持ち・声の使い方……、いわば私の体全体でその人を再現している感覚になり、おのずと私の声にも話し手の想いが乗ってくるのかなと感じます。

関谷:その通りです。会議には目的がある。そこをしっかりと見極めるために、関連記事や書籍を読みこんで把握することから始めます。加えて話し手に関する準備には、「動画」を活用していて。YouTubeなどでその方が話している動画を探して、家で一人、同時通訳をしてみるんです。

本人の話し方のクセを把握し、練習しておくことで、話し方の細かいニュアンスが掴めたりします。そうすると、その方の人柄が伝えられるんです。たとえば、本題から少し脱線した余談の部分。普通に訳せば「困ってしまいます」となるのを、「困っちゃうんですよね」と、わざと崩すこともありますね。

なにより、動画で練習しておくと「準備できるところまでやった」という自信に繋がります。どれだけ同時通訳の回数・年数を重ねていても、やっぱり緊張はつきもの。だからこそ、客観的に見ても「やりすぎ」ってくらいにいつも準備してしまうんです。

関谷:ちょっと、やりすぎかもですね(笑)。この質問案もそうですが、通訳の本番前は不安な気持ちから自分を追い詰めて準備することもあって……(笑)。

でも、どんなに準備しても「完璧にできた」と思えたことはないんです。通訳って、完璧が当たり前で、減点法だから。とはいえ、あまり落ち込むこともなくて。本番中は、それこそ“憑依的”な感覚で無我夢中で話しているので、終わった後に自分が何を話していたかって実はあまり覚えていないんですよ。


関谷さんが常に持ち歩いているという、愛用のLANケーブルとヘッドセット。どんな環境でもスムーズに同時通訳をこなしたいという、関谷さんのプロフェッショナルな姿勢が感じられるアイテムだ。


「インプットが足りない」と、2度目の留学へ

関谷:ひたすらアウトプットしていた時期だったんです。ありがたいことに、通訳会社を起こして間もなく、出版した著書『ビジネスパーソンの英単語帳』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がヒットしました。それを皮切りにどんどん忙しくなっていって。2011年から2015年までは、NHKラジオ番組「入門ビジネス英語」の講師も担当していたんです。もちろん自分の会社経営と両立していたので、忙しくも、ものすごく充実していましたよ。

関谷:当時取り組んでいた仕事は、これまで培ってきた経験の“アウトプット”なんです。ラジオや番組で話したり、本の原稿を書いたり。しかも最初の著書では「この5つだけ覚えれば大丈夫!」という内容でビジネス英語を扱っていたこともあって、少ない内容を、さまざまな切り口で5年間アウトプットしていて……。

「内心、このままだとみなさんへ提供できるものが無くなってしまう」という危機感がありました。最終的には「このままじゃいけない。新しいものをインプットしなくては」という思いから、留学を決断しました。

関谷:自分では大胆だとは思っていないんです。皆さんそうだと思うのですが、心のどこかで、「もうそろそろ変えなきゃいけないな」って、わかり始めてくるタイミングがありませんか?それが段々と蓄積していって、「やっぱり変えなきゃいけない!」と強く思えた時に、行動につながる。

私にとっては、2014年がそんなタイミングだったんです。著書がヒットして、番組でも私が前に出て……。毎日が充実していたけれど、内心「これで良かったんだっけ」と考えてしまっていた。逆を言えば、そこまでいかないなら無理に大きな行動をしなくていいと思うんです。

「起業した目的に立ち返って、もう一度ビジネスや経営の世界に戻りたい」。そう思ったのも、留学を決めた理由の1つでした。



関谷英里子(せきやえりこ)

日本通訳サービス代表。アル・ゴア元アメリカ副大統領、ダライ・ラマ14世等の通訳実績でも知られる同時通訳者。『カリスマ同時通訳者が教えるビジネスパーソンの英単語帳』『同時通訳者の頭の中』ほか著作多数。NHKラジオ「入門ビジネス英語」元講師。慶応義塾大学経済学部、スタンフォード大学経営大学院修了(経営学修士)。伊藤忠商事、ロレアルを経て日本通訳サービスを開業。

取材・執筆:小泉京花
編集:山口真央(ヒャクマンボルト)
写真:梶 礼哉(studio.ONELIFE)